【努力賞】
【テーマ:さまざまな働き方をめぐる、わたしの提言】
人生の喜び
神奈川県  齊藤孝行  74歳

昭和41年新任の小学校教師になった。

子供たちの持っている夢を実現させてあげたい。どの教え子にも寄り添えて育てられる教師の仕事をしたい。若いころの新任の教師の夢だった。明日子供たちの前に立つのが待ち遠しいくらいの気持ちであった。

1か月が過ぎた、研修と担任と猛烈な仕事量が新任教師に押し寄せた。

児童名簿作成、環境把握家族関係児童を把握のための提出物、出席名簿作成統計連絡ノート職員会議記録日直登校班名簿行事計画作成交渉教材購入支払い交渉行事練習計画避難訓練計画同実施…

児童と接する授業以外の仕事が当時でも山積であった。子供の持っている夢を見つけてあげる余裕は少しずつ少なくなってきた。

事務処理と決められた指導法は教師の指導意欲を難しくさせていった。受験競争の教育は子供たち学級の仲間を分断させたりできる子供とできなかった子どもへの、教師の十分な育てる教育の時間は、確保できなかった。小学校教育は児童の心の美しさをより磨く教育である。能率や効率だけではない。人間の基礎教育である。ゆとりある環境のもとで強い人間を育んでいきたいと常に思った。

38年間、定年退職まで教員として、勤務し、児童と過ごしてきたのである。

確かに児童とともに過ごした。途中、転職したいと思ったこともあった。自己の無力さを思うこともあった。友人に励まされることもあった。一教師の限界を感じることがしばしばであった。しかし、家庭を持った男として潔く退職して家計を破たんさせるほどの冒険はゆるされなかった。資産家で、給料は不要であるなら冒険もできたかもしれない。

私には不可能であった。苦しくとも耐えて頑張り抜き、根性だけは捨てなかった。

ついに人生半分の仕事は教師であった。華々しい特記すべき活動はなかったかもしれない。幸い、仕事の継続は定年まで無事できた。

年平均35名担任して10年で350名担任,38年で約1444名の担任したことになる。一人ひとりの記憶は全員のこっているはずである。教え子の進路、人生の行路はさまざまである。途中事故にあったもの、医師になろうと進んだもの、不動産業の資格を取ったもの、離婚した子一人一人の路である。

先日ある学年の同級会に招待を受けた。

すでに六年生のあの子供たちが42歳の働き盛りになっていた。8名ほどの集まりであった。30年振りにあった。六年卒業の時の面影はすぐ戻った。一人一人が、今必死に生きるための糧を得るため,真面目に働いている。歓談の中でひとまず安心した。

人生航海の真っただ中でかつどうしている。

荒波に会い、岩礁にのりあげることもあろう。

元担任として、教え子の健康を願わずにはいられなかった。生きる根性を太く持って,まじめに仕事に励めと、祈った。先生も「年老いだね」とうなずきながら、笑っていた。

仕事は生きる源になる。収入源である。人の生き方、性格までも、形成され、人間の個性それぞれが発揮されてくる。人間形成の活動そのものなのである。

社会的個人としてより責任ある地位をえる重要な働きなのである。いかなる仕事でも社会で支えあったしごとであり、貴賤はなく、また、もつべきでない。自分の仕事への探求と熱意、根性、は人生を少しずつ開き行路を堂々と進むことができる。仕事はエンジンなのである。

時にはメンテナンスも大事であり行路の点検も必要である。第一は健康である。仕事によって健康な体になることも多い。人生の第一は健康であって、健康な肉体で仕事をなし、充実した人生行路を進むよう願わずにはいられない。私もまだ精進し、仕事ができる幸せを感じていきたいと思う。

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