【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】
「英語が話せるだけ羨ましい」「美優には、英語があるからいいじゃん」これは、私が、今まで生きてきた短い人生の中で、ひっきりなしに言われてきた言葉である。私は、帰国子女だ。小学二年生から小学五年生の終わりまで、四年間弱の小学生時代をイギリスのロンドンで過ごした私は、英語を流暢に話せる。英語資格はトップレベルのものを持っていて、本はよく英語のものを読むし、外国人に話しかけることもできる。確かに、そんな自分を、不幸だと思ったことはない。 しかし、私は、珍しい特技があるわけでもなく、熱量を持ってのめり込めるような趣味もない。逆に言うと、そんな私が持つ取柄は、「英語を話せること」でしかないのだ。高校生になると、周りは進路について考え始める。学校の先生だの、獣医だの、確立された目標やパッションをもって勉強に励んでいる子は少なくない。それに比べて、私は今まで、ただ「英語を話せる」というアイデンティティーだけで、漠然とした将来のイメージを描いていた。しかしそれは、よく考えてみると、全く自分の「夢」ではないと気づいた。塾や学校の英語教師、観光ガイドやホテルスタッフ。バイリンガルであるという事実だけで、就職の幅が大いに広がることは間違いないが、それは本当に私のやりたいことなのだろうか。私がこのテーマでエッセイを書こうと思ったきっかけは、商社マンである父の仕事を手伝う機会があったからである。 それは、ある海外の会社のプレゼンテーションを聞き、日本語にしてまとめ上げるという業務だった。一見簡単に思えるが、使われている表現に独特なものが多く、早口だったため、帰国子女でもなく留学経験もない父にとっては、苦痛な作業だったのであろう。助けの手を差し伸べ、とりかかってみると、とても難しかった。似たような言葉はあっても、この言葉として訳すと、ニュアンスや口調のトーンが異なってくるかもしれない、一致する言葉がない、伝わりやすいのはこの言い回しの方が良いのか、など、考える事がたくさんあり、大変だった。しかし、それはなんと同時に、楽しかったのである。最初は、面倒くさいと感じながら行っていた作業だったのだが、綺麗に訳せた時は、パズルのピースがきっちりはまったような感覚で、嬉しくなった。二つの言語が交わる時、まるで、双方が互いの国の文化を理解できるような気がしたのだ。例えば、「もったいない」「初心」「切ない」などの日本語の言葉は、完全には英語に訳せない。謙虚さ、ものを大切にする心、控えめな感情を重んじる所は、日本人特有の考え方であり、文化である。その色差しを保ったまま、訳すことができる翻訳家の凄さを、改めて感じることができた。そして、これを通し、やはり私は、英語を使った仕事がしたいと思った。自身が、他の国と日本をつなぐ架け橋になることができれば、どんなに幸せだろうか、と考えるようになれたのだ。 私はまだ、働く、という経験を一切したことがない。同年代の子でも行っているアルバイトすら、挑戦したことがなく、大変さはまだ分からない。だが、やりがいを感じながらお金がもらえるような職業に、自分の強みである英語を活かして、就いてみたいと思う。そしてそんな目標を掲げられるようにしてくれたのは、言うまでもなく私の親だ。ロンドンには、父の仕事の都合で行ったため、最初は嫌がっていたのを覚えているが、今考えると、連れて行ってくれたことに対して、頭が上がらない。今後は、その親に恩返しをするためにも、自分の持つ「英語」というアイデンティティーを高め、さらに磨いていきたい。たかが高校生、されど高校生。夢を見つけ、それを自分の手で掴めるようになる日は、そう遠くないはずだ。