【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】

「神様、怒られたくないです」
徳島県  名無しの営業 24歳


 かの有名なビルゲイツが言った。「あなたの最も不幸な顧客が、あなたの最大の教師です」と。
 
 入社したての頃の私は、仕事で怒られることがあまりなかった。営業として担当したお客様は優しく、新入社員という立場だったこともあり温かく迎えてくださる方ばかりで、ミスをしても許してくださることが多かった。
 そんなある日、会社の電話口からお客様の怒鳴り声が鳴り響いた。その日の天気は大雪で、ほとんどの社員が在宅勤務をしており私を含む数人しか出社していなかったので、フロア全体が「ああ、これはクレームだ」と感じ取れるほど受話器の声が漏れていた。そんな電話をフロア端の席から眺めながら私は「こんな怖いお客様を抱える営業は可哀想だな」と可哀想な営業に同情していた。暫くすると電話対応をしていた先輩が受話器を置き、おもむろに私の名前を呼びこう言った。
 「このお客様の担当、あなたのお客様だと思う」
 そう、私のお客様。厳密に言えば、私の前任の担当営業が退職する際に、私に引き継ぎ忘れていたお客様だった。すぐに謝罪するため、上司と一緒に会社を出た。会社を出てお客様と会うまで、私は心の中で「神様、お客様に怒られたくないです」と見えぬ神に懇願し続けた。しかしながら私の祈りは棄却され、この上ないほどにお客様の怒りを浴びる結果となった。
 
 それからというもの、引き継ぎ忘れのクレームという最悪なスタートを切ったお客様に悩み続けた。顔を出しては怒られ、電話をしては怒られ、メールをしては怒られ、何をしても怒られた。「こんな怖いお客様を持って私は不運だ」と嘆きながら、怒られない営業を模索する日々を送っていた。
 そんな時、そのお客様が「お茶でもどうか」と声をかけてくださり、一緒にアイスコーヒーを飲むことになった。突然の展開に私が戸惑っていると、「仕事の話ではなく、君の話が聞きたい」とお客様は言い、私にいくつか質問をした。私の生い立ちや学生時代、何故この仕事を選んだのかを話すと、そのお客様も自分の生い立ちや仕事への想いを話してくださった。はじめて本当の意味での対話ができた気がした。少しずつ言葉を重ねていくと、このお客様が私を対等に見てくださっていることがわかった。対等に見てくださっていたからこそ、他のお客様が「まだ若いから」と許容していた所にも目をつぶることなく注意してくださっていたのだ。
 そんなお客様との関係が1年経過した頃、私は引っ越しの関係で退職することになった。そのお客様に退職する旨を報告すると「引き継ぎはしっかりね」と言われ、最後の最後まで釘を刺された。そんな中迎えた最終出社日、腰の高さまである大層立派なお花が私宛てで会社に届いた。差出人は、私を叱責し続けたお客様だった。驚きながら電話をすると、「これからの成長を見られなくて残念だよ、今までありがとう」といつもより柔らかい声でお礼を言われてしまい、嬉しさのあまり私は静かに泣いた。
 
 社会人になると仕事でしか怒られることがないと言っても過言ではないほど、プライベートで怒られることはまずない。怒られないから、自分の悪い癖や足りないところを時間と共に受け入れてしまう。だからこそ、仕事という他者と自分をすりあわせられる機会を通して、自分の欠点や弱さと向き合うことが出来るのだと思う。そしてその欠点を削りながら、鉱石が磨かれていくように、少しずつ輝きを放つ人になっていくのではないだろうか。つまり仕事で出会う人は自分が成長する為に欠かせない存在であり、その中でもより叱責する人は自分が大きく成長する機会になる人かもしれない。そんな風に仕事を考えられるようになってからは、どんな出来事にも、どんな人にも感謝するようになった。
 だから私はもう二度と神に懇願することはないだろう、「神様、怒られたくないです」と。

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