【 一般社団法人 日本産業カウンセラー協会 会長賞 】

先生
静岡県  大塚遥香 34歳


 何年も前の話である。ほぼ毎日といっていいほど利用するコンビニエンスストアで、ベトナム人のGさんという女性の店員さんと顔なじみになった。少したどたどしい日本語ながらも、いつも笑顔で接客してくださる気持ちのよい方である。私は彼女と朝の挨拶をするのが密やかな楽しみだった。
 
 そんなGさんに、ある日「漢字を教えてほしい」と頼まれたのは、その年の冬のことだった。荷物を送る用事があって持ち込んだところ、たまたま接客してくれたGさんだったのだ。彼女は申し訳なさそうに「自分は漢字が読めないので、発払いや着払いの違いや、漢字で記載する箇所がよくわからない」と私に告げた。このことがGさんの学習心に火をつけたのか、私の時間のあるときでいいから、常用漢字を教えてくれないか、と頼まれたのだ。
 かくして、Gさんと私の漢字学習会はスタートした。駅ナカのカフェで待ち合わせをし、小学生用のドリルをベースに、書き順などを説明し、一緒にノートブックに練習する。実は、私よりも年上のGさんに小学生用ドリルを渡すのは気がひけたが、「自分は漢字を初めて学ぶから、これでいいのです」と言ってくださったので、安心した。とめ、はね、はらいからはじまり、部首やなりたちを説明していく。コンビニ業務や日常生活の中でよく使用するであろうものを勉強の中心としていたが、Gさんは漢字の面白さに気づいたらしい。彼女が気に入っていたのは、雨のつく漢字であった。霧、雲、雫・・・。漢字を見ると、実際に雨が滴ったり、雲が空を覆ってゆくさまを想像したりするらしい。
 「雨という感じは、そのものが美しい水滴のようで、私が好きです。先生は、どんな漢字がすきですか。」
 と聞かれたときには考えこんでしまった。ついぞ、好きな漢字など考えたこともなかった。
 
 彼女は私のことを先生と呼んだ。先生なんてとんでもない、名前で呼んでくださいと言っても、漢字の先生であることには変わりないですから、と笑っていた。
 
 勉強会を初めてしばらくして、Gさんの勤務するコンビニに買い物に行くと、ちょうど彼女は別のお客さんの接客をしていた。扱っていたのは宅配荷物である。Gさんはよどみなく発払いか着払いを聞きとり、伝票に必要事項を書いていく。私はハラハラしながらこっそりと見守っていたのだが、助け船など余計なお世話だと言えるほど、Gさんは堂々としていた。ひととおり接客が終わったところで、Gさんは私に気づき、ブイサインをした。私もブイサインを返した。このときの彼女の笑顔を、私は忘れられない。
 
 残念ながら、彼女はしばらくしてお店を辞めた。別のところで生活をする、とのことだった。
 桜の舞う日、彼女と最後の言葉を交わした。先生に漢字を教えてもらう時間は楽しかったし、これからも、仕事で活かしますと言ってくれたとき、私は反論したかった。違うんです。私のほうこそ、あなたにお礼を言いたかったんです、と。自分の仕事に誠実であること、必要な知識をきちんと学ぶ姿勢は、私こそ見習うべきものだった。Gさんとの時間が楽しかったこと、彼女の書く漢字が、なんだか可愛らしくて好きだったこと。たくさんの思いの代わりに、私は深く頭を下げた。
 彼女はいまもどこかで働いているだろうか。
 仕事で、日常にマンネリや停滞を感じるとき、ふと、Gさんのことを思い出すことがある。そうすると背筋が伸び、よし、もう少し頑張ろう、他に学べることはないか、と前向きな気持ちになる。
 
 Gさんは私の先生だった。

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