【 佳   作 】

【テーマ:仕事を通じて、かなえたい夢】
だれも除け者にしない教育を目指して
広島県  天 野 幸 喜  59歳

私は、生後10か月くらいの時に、小児麻痺を患った。それによって左下肢麻痺となり、身障者手帳3級を取得した。小・中・高と学校は、普通科に行ったが、体育は、全て見学であった。他の選択肢は何もなかった。左足全体に装具をつけて、歩いていたが、いくら頑張っても、走れない。だが、体育に参加せず見学すること、つまり集団から排除されることは、みじめであり心をねじまげてしまうことになる。特に運動会では、とても情けなく、ごちそうの弁当が、かえって、侘しく思えた。

大学の文学部に入学して、体育の授業に初めて参加させてもらった。四百メートル走に加えてもらった。「走れなくていい、歩いてもいいから、四百メートルをゴールしろ」と先生は、指示し、完走するまで、ずっと待っていてくれた。ゴールした時は、もう学生は、誰もいなかったが、嬉しかった。びっこでも、ちんばでも関係なかった。恥ずかしいという気持ちより、みんなと一緒に参加できたという喜びの方が、よほど大きかった。スケートの授業では、先生が「俺の手を持て」と言って、スケートリンクの真ん中に連れていき「ここから自分で何とかしてみろ」と言われた。「通常の滑り方を指導しても通用しない。体で感覚を身に着けろ。」私は、そう理解した。リンクの真ん中から手摺の所まで行く間に、氷の上を滑る要領を掴み、授業を重ねるうちに滑ることができるようになった。スケートの自信が、次はスキーへ挑む力となった。この経験は、私の心と体にとって大きな救いとなった。

自分の責任でないことで、集団から排除される。私はこの理不尽を変えたいと思った。だれも除け者にしない、だれも卑屈な思いをしない、誰もが尊重し合い、その才能を伸ばせる教育をし、広めていきたい。これが、生涯をかけて実現したい私の夢となり、教師を志す動機となった。

だが、びっこで教師に採用されるのか。大きな不安におそわれた。当時、こんな体の先生など見たことも聞いたこともなかった。親からも散々言われた。

「五体満足の人と、足がわるいのと、お前なら、どっちを選ぶや?」

しかし、足がわるいからそ、不自由な人の立場に立つことが出来る、自分には責任のない理不尽なことで、悔しい思いをしている人のことがわかる。五体満足の人には、分からない事が、わかるのだ。この視点に立てた時、中学校英語教諭として採用された。

実際は、中・高の英語の授業、クラス担任ラグビー部顧問、生徒指導をしたが、数年後過労のため、突然健常であった右足が麻痺し立って授業ができなくなった。ポストポリオという、小児麻痺の後遺症が原因だった。周囲の計らいで職員室の横に、私の授業のための教室を設けていただき、生徒達が来てくれることになった。ありがたいことだった。しかし、担任も部活もできないのでは迷惑がかかる。それに、厚意に甘えていては自分の夢を追えなくなると判断し退職して、中・高生対象の塾を開いた。

それからというもの、自然クラスでの授業除け者にしない授業に挑戦している。が、満足のできる授業が一度もない。飲み込みの早い者、遅い者がいるわけだから、教えれば教えるほど、その差は大きくなる。自然クラスが上手くいかないのは当然だと考えられる。確かに、そうかもしれない。だが、上級になればなるほど、基本を問われることが多くなる。当たり前のことを鵜呑みにせず、掘り下げて自分のものにしておくことが、必要である。

だから、多様な生徒を受け入れるためにはまず、教師が、当たり前のことに疑問を抱き根底から理解しようと心掛け繰り返し練習し身につけることを怠らないことだと考える。

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