【 入   選 】

【テーマ:仕事探しを通じて気づいたこと】
感動の涙
沖縄県  松 井 純 子  63歳

朝7時半、いつものマイ場所へ向かう。近くの小学校の登校見守りを日課にしている。

信号のない交差点、手を上げて立っている全身ランドセル姿の新一年生を横目にスピード走行の観光客、血走った地元運転手、小中高生とのハイタッチ !! などで、

『交差点物語』は開幕する。

そんな中、ホッと和むひとときがある。

“ほほえみの民” と呼ばれているベトナムからの青年達の笑顔だ。

「オハヨ ゴザイマス」

インターネットで調べたベトナム語。

「チャオ、ブイサン(おはようございます)」

お互いに、ほほえみがえし。

送迎を担当している地元の男性に聞くと、酪農業の研修生で3年間の契約のようだ。ここ石垣島にも、中国・インドネシア・フィリピンからの研修生が多数、仕事の為に来島している。“やる気” に満ちていて、かつての私と被り、陰ながら応援をしている。

本土復帰を果たしてから3年目の昭和50年3月、高校を卒業し単身上京。“好奇心” と “夢” を追っかけた熱い日々が私にもあった。

高度成長期の東京は活気があり、小さな島から来た私を圧倒したが、負けなった。

先ず、日本本土を知りたかった。

公共職業安定所(現ハローワーク)の紹介でバスガイドになった。

中央フリーウェイから眼前に広がる日本一の山『富士山』を見た時、神々しくて大感動し、修学旅行生の前で泣いてしまい、拍手をもらった事や、皇居・国会議事堂などの案内にも慣れた頃、島の父母から電話。

「心臓が、いくつあっても足りん…」

観光バスが交通事故 !! テレビを観たとの事。“親の声は、神の声” と言われ、育てられた私は、2年で敢えなく退職をした。

20歳の春、一念発起で幼児教育の道へ進む決心をして受験。もちろん仕送りなしの現実。

昼間、精密機械の組立工、夕方6時から自転車で短大へ。閉店間際の銭湯へ行き就寝。翌日7時半出社。給料8万、1万家賃・2万学費・成人式用振袖のローン返済など、ギリギリの生活を3年間。

弾けないピアノの前で泣き、遅刻をして上司に叱られても、仕事は意地でも辞めなかった。

卒業証書は “頑張った勲章” だ。

根性の土台は、良くも悪しくも、その時に造られたと思っている。

あれから40余年、どんな苦境にあっても、あの青春時代を想い出すと乗り越えられた。“若い時の汗は、年老いて感動の涙になる”

本当に、そのとおりになっている。

我が家にも、旬の若者が6人いる。

2人は嫁ぎ、子育てと仕事の両立に頑張っている。他は、東京・沖縄本島で仕事をしていて、悩み多き中にあっても、意義を見出し生きている姿は眩しい。あっぱれだ。“感性” があるから、もがき苦しむのである。

心が疲れたら島に帰って来たらいい。

美味しい琉球料理を食べ、エメラルドグリーンの海を見て英気を得て、又、大海原へと漕ぎ出せば良い !! と伝えている。

明日を信じられる人は強い。屈んだ分、大きく飛翔できる。大空に向かって。


幼少の頃、家業の豆腐売りで家計を助け、青春時代は自らの夢実現の為に働き、結婚してからは、宝子達の夢実現応援団として、マグロのように動き続け、金銭を稼いで来た。

現在60代半ば、体力的に不安材料がある中、年相応に、何が出来るか、今いる環境で納得のいく生き方をしようと覚悟を決めている。


今朝も、たくさんの『ほほえみ』に会いに出かける私です。

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