【佳作】

【テーマ:仕事を通じて、こんな夢をかなえたい】
偉人から医人の道へ
徳島市立高等学校 澤 田 晴 奈 18歳

小学生の時に読んだ伝記の中にエドワード・ジェンナーの物語があった。彼が生まれた18世紀のヨー ロッパでは天然痘が大流行し、百年間で6千万人の人が命を落とした。当時のロンドンでは人口の三分 の一が何らかの形で天然痘に罹患したというすさまじさである。イギリスの田舎町、バークレーで生ま れたジェンナーは5歳の時に父母を亡くして家庭的には恵まれなかったが、化石の収集やヤマネの飼育 に没頭する自然が好きな少年であった。13歳から地元の外科医に弟子入りして外科医を目指す。ある日、 発疹を訴えて診療所を訪れた農家の女性から「私は以前に牛痘に罹ったので天然痘には罹りません。」と いう言葉を聞く。その話はなぜかジェンナーの心に残った。ロンドンの病院で修業を積んだ後、ジェン ナーは故郷に戻り、開業医となる。そして農家の女性から聞いた言葉が忘れられず、自分の子供で牛痘 接種により天然痘の感染が防げることを確認した。世界初の牛痘種痘法の誕生である。彼は「自分の発 見で金儲けをする気などはない。」と言い、生涯田舎町でつつましく暮らした。また貧しい人には無料 で種痘を続けたという。そしてその2百年後の1980年、世界保健機関WHOは天然痘の絶滅を宣言する。本の最後にはこう書かれていた。「優れた臨床医は生涯に数千人もの命を救うことができる。しかし優れ た研究者は時として数億人もの命を救うものである。」その本に感動した私はジェンナーのような生き方 をしたいと漠然と思った。しかしそれは昔の遠い国での夢物語であり、自分とはあまり関係がないとも 感じていた。

中学校2年生の時、高校生の兄が全国弁論大会に出場した。テーマに選んだのは兄の高校がある場所 に幕末から明治にかけて住んだ関寛斎という医師の一生であった。関寛斎は徳島藩の藩医として召し抱 えられ、関東から徳島に移り住み、明治になってから徳島の地で開業する。彼の功績のひとつとして貧し い人たちに無料で種痘を行ったことを兄が論じた時、私の中で何かがつながったような気がした。ジェ ンナーの話はあくまで本の物語の世界であったが、関寛斎の話は自宅から数キロメートルの場所で起 こった事実としてありありと想像できた。そして関寛斎も富や栄達とは無縁の人生を送り、人間の清ら かさにおいて日本第一級の人物として作家、司馬遼太郎氏から評されていることを知った。兄が弁論の テーマとして関寛斎のことを選んだのは北海道で地元の人から「徳島の人なら関寛斎先生をご存知です ね。」と問われ、全く知らなかったことを恥じて自分で勉強したことによる。ジェンナーと同様に他人の 何気ない言葉が人に与える影響は大きいと感じた。

こうして具体的なお手本を見つけた私は関寛斎のように徳島で働く医師になり、地元に貢献したいと 考えるようになった。ちなみに関寛斎は70歳を過ぎてから北海道に移り住み、自分の力で開墾して理想 の村を建設しようとした。ジェンナーは引退後に渡り鳥の研究を行い、渡り鳥の生態を明らかにした。幅広い興味と関心、そして想像力と行動力が医師には不可欠なのであろう。また素直な心で謙虚な気持 ちをもって人の話に耳を傾けることも医師には必要な素養だとジェンナーの業績から学ぶことができた。

一方、関寛斎は従軍した奥羽戦争で敵味方の区別なく診療を続け、それを味方から非難されても跳ね除 けて自分の医道を貫いた。徳島城下ではどんなに遠くても頼まれればひとりでふらりと出かけ、貧富の 差に関わらず平等に診療を続けた。貧しい人からは一切、治療費を受け取らなかったと言われている。平 等と博愛の実践、それを彼の人生から学んだ。

歴史はいろいろなことを語りかけてくれる。そして過去と今が何かをきっかけにつながった瞬間、突 然自分が就きたい仕事の具体的な未来が見えてくる。私は目の前に広がった長くて険しいその道を自分 の意思で前へ進もうと決意している。

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