【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】

【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
カメレオンのように♥
沖縄県 松 井 純 子 63歳

若い頃から『仕事』が好きだった。

好奇心が旺盛で、バスガイド・弁当屋・保母など、10本の指に納まらない程経験して来た。

結婚当初、夫も私も会社員。半年後に長女、その1年後に次女が授かった時、 「私、専業主婦になり、娘達を育てます!!」 と夫に表明。2人を保育所に預けると、私の給料の大半が消える事もあり、何よりも娘2人と、日がな 一緒にいたかった。

(いつの日か社会復帰が来る日を待つ)。

だが、幸せの連鎖は翌年も続いた。2人合わせて7キロのビックな3女・4女が誕生。

結婚3年目にして四姫の親になった夫と私。『子宝』という言葉が大好きな私の元に、双子から3年後 に長男、10年後に次男が授かるという『幸せハプニング』が続いた。

40歳を前にしての出産。

次男の小さな小さな手の平を見ていると、 (この手で?みたい夢は、何でも叶えたい) と真摯に思ったものだ。

2Kのアパートは狭く、一戸建てを購入。ローンの返済、教育費、生活費など、考える事が、頭の中 でひしめき合っていた。

宝子達に幼い頃から言い続けていた事がある。

1、働かざる者、食うべからず。

1、国公立大なら4年、私立大は2年。

1、自由と責任の関係。

例えば “大学進学をしたい” 場合、沖縄の離島である石垣島から本土の大学進学時に、入学金、授業 料など莫大なお金が必要だ。

「さて、どうする?」

夜8時は全員集合、夕食時、一日の出来事、夢を語り合う、家族会議の場と化す。

宝子達が、夢を追っかけても良いように、オギャーと産まれてすぐ、18歳満期の保険にも加入した。が、 それだけでは勿論足りない。会議で決まった事は、早朝の新聞配達だ。

小学2年から島を離れるまで、親子で頑張った。給料の大半を『夢貯金』とし、小遣いも自らで工面 した宝子達。

沖縄の教訓歌『汗水節』に、

♪朝夕働ちよてぃ 積み立てぃる銭や

若松ぬ栄い年と共に、シュラヨ~働らかな♪

がある。大学進学が決まり、入学金・前期授業料・旅費・アパートの家賃などに充当する事が出来た。基 本的に仕送りなし、奨学金とアルバイトで生活費を捻出する。不足分は、松井銀行から借入となり、就職した暁に返済となる。

大学4年生の次男は、2月から横浜の長女一家を拠点に就職活動に入り、那覇や東京での企業説明会、 面接を繰り返し挑戦してきた。

こんなに真摯に『仕事』に向き合う次男は、 「根性は、石垣島で培われた」 と豪語するも、中々内定が降りないと落ち込み、泣きながらの電話もあった。

「先取り不安はしない!!夢を諦めないで♥」

 

果たして6月中旬、本命の企業から内定が。

今までの涙が、真珠に変った!!感涙だった。

現在、卒論に苦しみながら、部活・4年目に入ったアルバイトで生計を立てている。

 

子育てが落ち着いたら、さっそうと外に出て働く夢を抱いていたが、実母の介護・自身の病気などが 重なり、柔軟的に対応できる登録ヘルパー(10年前に資格を取得)八重山ミンサ伝統織物の職人として 現在に至っている。

 

私の働き方改革は、年齢も加味し、体力・知力と相談し、その時の状況に合わせて、変幻自在に色を 変えるカメレオンのように働くのが肝要かなと思っている。

我が家の宝子達は、夢を叶えた子、夢半ばの子、六人六様の人生舞台を果敢に生きている。今の “若 者” を生きている。

若者よ!!やる気と情熱を友にして生きよ、自ずと道は拓けると思う。

人生の先輩として、エールを贈り続けたい。

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