「だめだ。もう電車に間に合わない。行ってきまーす」
毎朝7時半の私のセリフである。フルタイムで働く妻は慌しく化粧中、保育園に通う2歳の息子は、アニメを見ながら食パンをかじっている。
夫婦共働きの私たちにとって家事、育児は分業制。私は朝、出勤するまで息子の面倒を見る。7時に息子を起こし、おむつを替えて着替えさせ、妻子用に食パン2枚をトースターへ。その間、お風呂掃除を手早く済ませる。
私は時計を気にしつつ、ゴミ袋を両手に玄関を飛び出す。妻はリビングから、「え―。もう行っちゃうの」と、いつも悲鳴のような声を上げる。車通勤の妻が保育園の送迎を担う。平日は毎朝、このドタバタが続く。夜も時間に追われるのは変わらない。
仕事と育児の両立生活が始まって1年。妻の親は既に亡くなり、私の親も遠方に住んでいるため、夫婦で何とかするしかなかったが、少しずつ生活が安定してきた。
悩ましかったのは、息子が保育園に連れて行くと「いやだ」と言って泣き出すことだった。保育所に入れない待機児童が昨年4月に2万3000人を超え、社会問題化している中で、こんな悩みは贅沢かもしれない。実際息子も、30か所以上保育園の申し込みをして、ようやく入れた。それでも、1歳児を他者に預け、自分たちはせっせと仕事に行くことに後ろめたさを感じてしまった。そして、私は昼休みに「本日は元気に行けましたか?」と妻にメールするのが日課になった。妻から「元気に行けた」と返信があればホッとし「ママから離れたくなくて泣いていた」となればがっくりした。
そんな私の心配が氷解する出来事が昨年12月にあった。その日は土曜日。保育園のクリスマス会だった。息子はその一昨日から熱を出してしまい、保育園を休んでいた。クリスマス会では、園児たちが練習していたお遊戯の発表会があるらしかった。当日の朝、熱が下がり体調も良さそうだったので、家族3人で登園した。
保育園の入り口で出迎えてくれた20歳代の担任の女性保育士さんが、息子の顔を見るなり、満面の笑みをした。両手を広げ「今日は登園できてよかったねぇ。いっぱい練習したんもんねぇ」と息子を抱きしめた。目にはうっすら涙を溜めているようだった。息子は嬉しそうにはにかんでいた。その光景を目の当たりにし、「いい保育園で毎日を過ごしているんだなぁ」としみじみ思った。私はお遊戯をビデオカメラで撮影しながら、いつか息子に、お遊戯の前に抱きしめてくれた保育士さんの話をしてあげようと思った。
今はもう、昼休みのメールはしなくなった。連絡帳には「カルタができるようになりました」とか「泣いているお友達に本を貸してあげていました」といったことが書かれるようになり、親も知らない息子の一面に驚くことも多い。心身ともに成長しているのだろう。
仕事と育児を両立させる大人は大変だ。しかし、子どもたちだって大変だ。きっとパパやママと一緒にいたいのだ。保育園という小さな社会で、日々奮闘している。
そして保育士たちもまた、奮闘している。送りの早朝に見かけた保育士さんが、迎えの夜にまだ働いているのを何度も目にする。クリスマス会で抱きしめてくれたあの保育士さんは4月で異動となった。一人一人に手作りのメッセージカードを作り、最後の日は号泣していた。プロとはいえ、他者の子どもの面倒を見て、時に涙を流してくれる。「1億総活躍社会」は、そんな保育士と頑張る子どもの両輪なしには達成し得ない。
ある時、同じように共働きで子どもを育てている知人からこんな話をされたことがある。「保育園は子どもを『預ける』って言うけど、幼稚園は『通う』って言う。『通う』という言葉は主体性があるけれど、『預ける』というと何かモノみたいで嫌だよね」と。
息子は心ある保育士さんたちに囲まれ、毎日元気に保育園に通っている。そう信じて、私も妻も職場に向かっている。