【 努力賞 】
【テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
教えてもらえないことの有り難さ
東京都  渡 辺 真 悟  31歳

植木屋として働きだして10年、僕にはこの仕事を通じて学んだことがある。それは「教えてもらえないことの有り難さ」だ。

この仕事になじみのない人のために説明しておくと、植木屋とは個人宅やお寺などの植木を剪定することで、お庭をきれいにかっこよくする仕事である。僕はたまたま近所の植木屋が求人をかけていたのがきっかけで植木屋として働くことになった。そこは無口でいかにも職人といった感じの親方と、この道10年以上の先輩職人5人からなる会社だった。親方は正直ものすごく怖かったが、祖父の影響で植木は好きだったし、職人という肩書がつくことがなんだかうれしかった。仕事の内容も見た感じそんな難しそうではなかったので、すぐに覚えられると思っていた。

しかし、現実は厳しかった。僕に与えられた仕事は掃除と草むしりと一服の時のお茶の準備、そして片付け。ただそれだけだった。始めのうちは入りたてだからそんなもんだと思っていたが、半年たっても1年たっても状況は全く変わらない。少しでいいから剪定の仕方を教えてほしいと親方に言ってみようとも考えたが、いざ親方を前にすると怖くて言えなかった。

こんなこと続けていても無駄だ、やめてやろうと何度も思ったが他にやりたいこともないしなんだかんだやめずに2年が過ぎた。状況は全く変わらない。僕自身その頃にはもう教えてもらうことは諦めていたのだが、その代わりに、ここまで来たら意地でも技術を盗んで身につけてやろうという気持ちがかなり強くなっていた。僕は毎日掃除や草むしりをしながら親方や先輩たちがどう剪定しているのかを見続けた。剪定前と剪定後の植木を目に焼き付けた。その後の枝の伸び方はどうなのかを観察し続けた。でもよくわからない。今から思えばやる気と意地と焦りが入り混じったような気持ちだった。

5年が過ぎた。状況は変わらず毎日掃除や草むしりをしながら観察を続けていた。ただ、僕のやる気と意地と焦りはそのころにはもう落ち着き出していた。そして、なんとなくだが剪定方法がわかってきたような気がしていた。それがちょっと自分の中でうれしかった。

そんなある日、親方に声をかけられた。「おい、これやれ」僕はびっくりして「え、僕が、こ、この松を手入れしろってことですか?」と聞き直した。「そうだ。早くしろ。時間ないぞ」親方はいつも通りの怖い口調で答えた。「は、はい!」僕は急いで脚立を準備し鋏を握った。初めて人様の大切にしている植木に鋏を入れる。しかもよりによって門の目の前にある立派な赤松だ。いざ目の前にすると一瞬緊張が走った。しかし、不思議とすぐに落ち着いた。それどころかどこからともなく自信がでてきた。赤僕は松を前に完全に美しい剪定後の姿がイメージできていた。

僕は鋏を入れた。迷いはなかった。途中親方の方を見てみたが、親方はこちらを気にする様子もなく自分の仕事に集中している。僕も自分の赤松に集中した。長かったような短かったような、おそらく半日くらいかけて僕は一人でその赤松を仕上げたような気がする。「終わったらさっさと掃除しろ。ぼーっと突っ立てる暇なんかねぇぞ」剪定が終わった赤松を眺めていた僕に向かって親方が言った。「はい!」今まで味わったことのないものすごい満足感というか達成感というか充実感だった。

それから5年、今では先輩たちと同じように仕事をこなし、毎日充実した日々を送っているわけだが、時々ふと思うことがある。もし、なんとなく植木屋を始めたあのころの僕に、すぐあれやこれやと親方が教えてくれていたらどうなっていただろうと。もしかしたらすぐに飽きてやめていたかもしれない。もしくはやめてはいないがなかなか技術が身についていないかもしれない。答えはわからないが、僕は親方にこう言いたいのは確かだ。「教えてくれなくてありがとう」と。もちろん怖くて言えないのだが。

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