【 努力賞 】
【テーマ:多様な働き方への提言】
女の子だっていいじゃない
北海道  カミオカテラ  30歳

私は、家の家業を継いで尼になった。実際には、寺院の長女として生まれた私と「僧侶になっても良い」と言ってくれた有り難い主人と運よく出会え、結婚を機に二人で仏門に入った。結婚が決まり、仏門に入ることを私の両親は許してくれたが、最初、二人は私が尼になることは反対していた。私が「女」だからという理由だった。私の寺院は、わりとのどかな場所にあり、女性の僧侶というのはまだ珍しい。都会には女性の住職も多いが、こちらではまだまだ偏見も多く、娘に辛い思いはさせたくないという思いだったのだろう。

そんな両親の思いをよそに、仏門を叩いた私であったが、何とか修行を終え僧侶になることは出来た。

しかし、修行を終え、実家の寺に戻り、私は両親の心配事にいくつも直面することになった。男性僧侶と何一つ変わらない修行をしたが、やはり受け手側が「女性の僧侶は有り難くない」と思えばそれまでなのだ。

 確かに、私には副住職となってくれた男性僧侶の主人がおり、その甘えや捨てきれない煩悩のために剃髪はしていない。お経の声も男性僧侶から比べれば高い声で威厳は無い。家族でさえ、女性僧侶を法事や葬儀に出席させて良いものか悩んでいるくらいだ。僧侶になってからこんなに悩むものだとは、思ってもみなかった。両親が尼になることを反対した時も「今はそんな時代ではないだろう」と高をくくっていた。

 「なぜ、僧侶の免許を取ろうと思ったのか」と僧侶の大学面接、友人、また同じ僧侶の方からも良く聞かれた。寺院に女性しかいなく、僧侶の免許をとるのならば理由は明快だが、結婚相手が僧侶になって家を継いでくれるというのに、妻も僧侶の免許を取るというのは珍しいようだった。様々な理由が頭をめぐり、はっきりきちんと答えられないことが多かった。

 優しい主人が勤め先を辞めてまで僧侶になってくれた。その感謝の気持ちと少しでも支えになりたいと思う気持ちももちろん一つの理由だ。

 私は、小さい頃から寺で育ってきて、僧侶の一番忙しい時期のお盆は、僅かながら手伝いもしていた。寺の受付みたいなもので、盆は、お墓参りとともにお経を求めてやってくる方々に対応し、その時居る僧侶と引き合わせるというようなことをしていた。しかし、どうしても僧侶がいない時がある。その時には、丁重にお断りしなければならなかった。残念そうな表情を浮かべる方々を目にしながら、申し訳なさと「ああ、私もお経が読めたなら、少しでもお役に立てるのだろうか」といつも思っていた。そんな理由からいざ僧侶の資格を取ってみたものの出来ない事の方が多すぎて悩むなんて、情けなかった。私が女性であるということは、変えられないのだ。

 そんな私ではあったが、やはりお盆の時期には出番も増え、寺院の回りにある墓地でお経をあげている。

 その日は、小学校高学年くらいの男の子と女の子を連れたお母さんからお経を依頼された。尼という事にすっかり自信を無くしていた私は開口一番「すみません。今の時間は女性の僧侶しかいなくて」と口にしてしまった。すると静かそうなそのお母さんが、力を込めてこう言った。

 「女の子だっていいじゃない」と。

 私はハッとした。女性だということを一番気にしていたのは、自分だった。確かに、女性の僧侶を良く思わない人が多少なりともいるのは事実だ。しかし、それと同時に「女性でもいい」と思ってくれる人も必ずいるのだ。私はそこに目が行ってなかった。そして、女性の僧侶だからと自らが卑下することは、相手に対してとても失礼なことだと反省したのだ。

私は、男性僧侶と同じ修行をきちんと受け、尼になったのだ。きちんと見てくれる人は見ていてくれる。 その人たちの為にもっともっと尼として、僧侶として出来ることを増やしていきたいと思った。

また、私と同じような「女性が珍しい職業」で頑張っている女性に、私を救ってくれたあのお母さん同様「女の子だっていいじゃない」とエールを送りたい。

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