この4月、私は民間企業に勤めて5年目の春を迎えた。自分が担当する業務にも慣れ、冷静に「働き方」について考える機会が増えてきた。
毎春、多くの学生が新社会人となり社会に飛び出していく。心機一転、志を胸に一歩を踏み出す者も多いだろう。この時、世間では社会人のためのノウハウ・自己啓発本やマスコミの特集において「できる社会人とは○○」「社会で求められる能力○○」といった文言の露出が増える。これらを冷静に俯瞰して見ると、エリート社会人(組織内において卓越した業績を上げ続けるエース社員)となるように促されていると感じられた。これはまるでバリバリと仕事に励み、結果を残し続けることは当然であり、そうでなければ社会人として認められないかのようである。このような社会的な風潮を「エリート社会人偏重」と定義したい。実組織内部に目を向けると、やはり同様に皆がエリート社会人になることを望まれ、そうなるように促されていると感じた。私自身も、入社当初から「自己研鑽に励もう!」「No.1を目指そう!」といった言葉をかけられた記憶がある。
「果たして我々は、皆がエリート社会人にならなければならないのだろうか。」
私は「そんなことはない!」と否定し、改めてこの偏重に警鐘を鳴らしたい。昨今のデフレ基調の経済下では、どの組織も存続と成長に必死で余力を持ちにくいため、少数精鋭で大きな成果を上げるという考えに走りやすい。ここにエリート社会人が求められる理由がある。もちろん、安直に生産性だけを考えれば、全員がエース級の働きで朝から晩まで働くような組織が理想かもしれない。しかし現実はそう単純なものではなく、全員がエリート社会人になることはない。努力の質・量、才能の有無、個人の適性によって適わない者が必ず出る。そもそもの前提として、私のように「仕事を通じて自己実現したい!」と考えるキャリア志向が強い者ばかりではない。昨今、個性の尊重が叫ばれて久しい。一人ひとりの「働き方」に対する考えが様々であることは明白である。本来、この多様性に人間としての優劣はない。「出世よりも今の立ち位置で頑張りたい!」このようにキャリアを望まない人や、途中でキャリアの階段を降りざるえない人だって大勢いる。私の同期にも「結果を求め深夜まで働くことが正義であり、そうでなければ悪という雰囲気ではやっていられない。」と言い、退職していった者がいた。組織に雇用される者として、与えられた責任を果たすことは当然としても、個人としての「働き方」に柔軟性があってもいいのではないか。社会全体を覆うこの偏重を背景に、多くの組織において「働き方」の多様性が制限されているように思う。もし、組織として多様な「働き方」を受容できる体制であったならば、私の同期は退職しなかったかもしれない。このままでは、人間としての尊厳ある暮らしが脅かされる気がしてならない。
我々が働く目的は人それぞれであるが、向上心を持ち、自分の力で成果を上げ、組織に貢献し、強いては社会の役に立ちたいという潜在的な思いを共有している。この思いを、自分らしい「働き方」で実現できる社会が望まれる。民間組織には、誰しもが働きやすい組織体制および制度の構築が必要である。加えて、官公庁による法的な対応を含む包括的なサポートが求められる。今一度、官民一体となった改革が必要であろう。私も社会人の一人として、自ら声を挙げることから始めようと思う。そして将来、子ども達が「働き方」で悩むことのない未来にしていきたい。