【 努力賞 】
【テーマ:多様な働き方への提言】
希望を持って働くために
栃木県  森 麻里絵  28歳

まず、「働く」とは一体何なのかを論ずる前に、憲法にも記載されている「職業選択の自由」という言葉に目を向けてみるとことにする。職業選択の自由は、「不自由のない教育」受けることが出来た者のみに与えられている「制限付きの自由」のように見える。「教育」の定義を学校教育においての教育、つまり机上での勉強≠ニ意味付けることとする。

原則中学校の授業料までが無償で、かつ義務化された現在の日本において、それ以降の教育については、第一に家庭環境が大きく影響することになる。そういった意味では初めから、子供に自由な選択肢は用意されていないことになる。つまり、家庭においての経済状況が子供達の将来をも大きく左右してしまうのである。

単刀直入に言ってしまえば、学ぼうとする子供達の気持ちがいくらあろうとも、その親に経済的余裕がなければ、子供達が自由に学ぶ機会は奪われ続けるのである。その結果、いざ就職をしようにも肩書きもなく世の中に放り出され「中卒」あるいは「高卒」のレッテルを貼られることになる。人間性を見るまでもなく世の中にはじかれていくのである。これでは、平等に働く機会を与えられていることにはならないのではないか。

運良く希望の会社に就職することができたとしても、「中卒」や「高卒」と「大卒」とでは初めから給料にも格段の差がある。この差は教育を受けてきた期間を、経済的価値と判断している証拠であると思うのだが、これでは経済的に恵まれずに大学へ進学することができなかった者達は、救われることがない。

親も生まれも環境も選べないという、生まれてくる者達の負った宿命に一生涯向き合い続け、その環境に恵まれなかった者達は、その宿命や運命とやらを恨み続けなければならないことになる。教育を受ける機会とはある一定の期間平等であるが、その後においては家庭の経済状況に大きく左右され様々な不平等が生まれる。そして、「格差」と呼ばれる、恨んでも恨みきれない闇が広がっていく。少なくとも、自分が恵まれた教育環境になく、ただ生活していく為だけに全てを費やす仕事に就いた場合、そのような者達が華族を持ったときに、希望を持って子育て出来る筈がない。最低限の賃金を与えられ、自分の将来すら見えず毎日がままならない状況のなのだから。

話が「働く」というテーマから大きく逸れた様に思われるだろうが、働くことへの希望を持つ、つまり生きることに希望を持つためには、まず平等に教育の機会を与えられることが大前提であるように思うのだ。その機械が与えられないというのであれば、社会全体が学歴で人間を判断することをやめるしか、恵まれない環境にある人間を救う方法は残されていない。働くことに、大きな意味を持たせることができるかどうかということ自体、教育とは切っても切れないものである。

大卒であり希望の就職先で働くことが出来ている者とそうでない者とが、同じように働くことへの意欲を持ってる筈がないのだ。この不平等を如何に解消していくかが今後の課題であり、これからの日本の行方を左右していく大きなポイントになるだろう。

まず、全ての者に教育の機会を平等に与えること、その上で、学ぶか学ばないかを各自が選択していくこと。

スタートラインに立つことすら許されないのであれば、勝つことは決してできずに負け続けることになる。希望を持って働き、生きていく為には、まず第一に「教育の機会(・・・)の(・)付与(・・)」が最も重要なのである。

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