【 佳  作 】

【テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
余 白
東京都  高 橋 隼  31歳

「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました!」溌溂とした声の主は深々と頭を下げて私の背中を見送った。上京して間もない頃、深夜に及んだアルバイトの帰り道。貯金も無いまま始めた一人暮らしで、毎日の倹約生活に困窮して身も心も肩身の狭い私の背中はいつも訪れるコンビニの丁寧な挨拶に後押しされていた。不思議と足取りは軽くなり、心の中に擡げていた将来への不安も、その時ばかりは一筋の晴れ間が覗けた事を10年経った今でも覚えている。

 当時の私は、プロボクサーに憧れて上京したものの、毎日の練習とアルバイトを両立しながら夢を追いかける下積み生活を送っていたが、私にとって「一心不乱」に目標を追い求める事はとても難しかった。リーマンショックが吹き荒れ、現職の総理大臣がコロコロと入れ替われば新聞やスマホが無くても先行きの不安は広がる一方だった。

加えて、アルバイト先の馴染みの仲間が次々と名のある企業の内定を掴み「おめでとう!」と声を掛けながらも内心は複雑な思いだった。

妬み、才能、縁、時代。縋れなければ、避けても通れない事柄を前にして、私は日々汗を流し、努力を重ねる事でしか結果を掴む手段が無く、いつしかその努力さえも闇雲に続けているうちに信じる事が出来なくなってボクシングに背を向けようとしていた。

 そんな私の背中をいつもポンっと押してくれたのが、深夜のコンビニで溌溂と送り出してくれるその声だった。いつでも当たり前に耳にする挨拶だが、私と年齢も変わらない店員さんの心の籠った丁寧な接客が疲労困憊の私には何よりも沁みた。私も負けてはいられない。

その後、私はプロボクサーになり、多くの喜怒哀楽を経験して現役を終えることが出来た。

就職もして月給やボーナスを得る事で、物質的には手に入るものも増えたが、安定してはいない。

寧ろ、暗いニュースは今でも蔓延しており、失業率以上に一身上の心配に晒されるような話題が隣国からも届く日々だ。(総理大臣は巡り巡ってあの頃と同じお方だが)

安定を求めてはそこからさらなる安定を求めるくらいならば、日々あくせくしながらも、一日の終わりに不安な自分を語れる心の余白を持っている状態の方が大事だと今になって思う。

 あの頃から何でも手に入るコンビニで私が頂戴したものはひと時のこころの余白だったのかもしれない。

日付も替わる夜道で深く吸い込んだあの時の空気は、何よりも澄んでいて、格別に美味かった。

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