『小2から定年まで4百字日記書く』
私は小学校2年生の新年から、小学校の先生をしていた父に「日記を書くように」と言われた。「毎日見たこと、したこと、考えたことを簡単に書きなさい」と教えられた。
4年生の新年からは、見開きで原稿用紙になっているノートに「4百字日記」を書かされた。「毎日、これ一杯に書くように」と言う。毎日4百字も書けないので、日記のために「何でも見てやろう、聞いてみよう」と何でも興味を持つようになった。毎日4百字が書けるようになると作文が簡単に書ける。
興味を持つことは今に続いていて、定年後は関心のあることに何でも挑戦している。
私の小学生時代は戦争中で、戦争に行っている兵隊さんに「慰問文」を書かされた。それを奨励する意味で、県などが主催の『慰問文競作大会』が開かれ、私は2回も「金賞」をいただいた。父は「作文が簡単に書けるようになると、大きくなって社会に出れば、いろいろと優遇されるよ」と元気づけてくれた。
『願書の作文が良くて無試験入社』
私は終戦後に旧制中学(5年制)を卒業して、上級学校へ進学する予定であったが、戦争中の労苦で病気になっていた父が亡くなったので、進学をあきらめて就職することにした。
ちょうど、ある新聞社が「スポーツ新聞」を発行するので、大学卒の新聞記者を募集していたから、私は「中学卒でも受験させてください」と言って、「将来の新聞」のことの考えを手紙に書いた。すると新聞社から「文章がうまいから無試験で採用する」と連絡があって、新聞社へ面接に行ったのである。
新聞社の編集局長は「給料は中学卒扱いにする」と言う。私は「父が亡くなって、大家族を養うために、少しでも収入の多い部所はありませんか」と聞くと、「新聞の委託印刷会社へ出向しなさい。そこは夜勤があるから50%の増収入がある。4年が過ぎれば戻って来て大学卒扱いにして記者になってもらう」と言われた。当時は活字印刷で、その工場の「校正社員」として出向することになった。
『印刷会社の活字の配列変え』
私は活字というものを初めて見たが、最初に気になったのが、その配列が「イロハ順」である。作業員全員が、戦前の小学校高等科(今の中学程度)卒業で、小学低学年で「イロハ」は習ってはいるが、「50音」で勉強しているから「イロハ」はややこしい。漢字も「当用漢字」が決められていても、活字配列は「当用漢字」外の難しい漢字が、大正時代に決められた「イロハ順」に並べられている。
私は「これでは時間がかかる」と思い、会社に提案して、活字ケースを「仮名活字」も漢字活字の「当用漢字」も50音配列の図面を作った。会社は「5年後ぐらいに会社移転の予定だから、その時に配列を変える」と言う。
そして出向して4年後に、本社は「出向解除」の連絡があったが、印刷会社は「戻らないでくれ」と言うことで、定年まで「出向社員」として続けることになった。5年後の会社移転の時に活字配列は「50音」になり、私は「作文を書く知恵が回っている」と思った。
『和文タイプの新配列表が実用新案』
出向とは言え、時々は本社に帰って来て、文書課の「和文タイプ」を打たしてもらった。
そして隣接の定時制高校で無報酬の「時間講師」で和文タイプを教え卒業生に感謝された。
ところが、和文タイプの活字配列も全部が「イロハ順」である。私は古い和文タイプを買って、1カ月かけて「50音」に並べ換えた。
私は「活字配列表」を、和文タイプ協会へ送ると、協会から「この配列表を参考に新しい配列を考える。とりあえず“上野式配列”として実用新案に登録する」と返事があった。
教会の「機関紙」に「2千円で上野式配列表を送る」と載せられたが、申し込んだのは10人ぐらいで、協会は私に千円を同封して送り先を連絡して来た。私は配列表に同封で千円を返した。その後にワープロが出て来て、和文タイプが廃れ新配列表は実現しなかった。
私は仕事を通じて、いろいろのことが実現できたのは「子ども時代から定年まで日記を書いていたから」と亡き父に感謝をしている。