私は軽度の吃音があり、そのことを長年共に暮らしてきた妻も知らぬはずだ。今でも妻や友人と会話をすると、次の言葉が発せず口をパクパクし、暫く会話が途切れることもしばしばある。
終戦間際、戦火を逃れ東京から両親の古里に疎開、病弱だった母は、私が6歳の頃に病死した。満足な医療も受けられなかったのだろう。次男だった父には田畑も分けて貰えず行商などしながら生計を立て、その後、父と二人だけで幼年期から少年期を過ごし、貧しい生活環境は寂しく楽しい思い出はない。
それでも、父の優しい顔と真面目な人柄は脳裏に残っている。他の学友や家族の姿を見るにつけ羨ましく思った。小学校時代は苛めにも合い、口数の少ない消極的な性格が「後発性吃音」になったのだと思う。
多感な時代、中学校では無二の親友との出会いがあり、彼の大家族の家に入り浸り、家族の団欒の楽しさを味わうことができ、その親友とは、いまでも交流を続けているが、その友すら、私の吃音障害の症状は知らぬと思った。その後の人生は紆余曲折の連続だった。
私は3つの高校を転校し、5年余かかりやっと卒業できた。社会人となってからも転職すること数十回と、時には言葉の障害が災いし、職場を辞めることもあった。一見、普通の人と変わらない会話も、突然言葉が詰まり、後の会話が続かないもどかしさがある。
人生の転機は、私が36歳の頃に、ある先輩の言葉に、その後の、私の人生を変えさせた「人間、誰にでも欠点や悩みを抱えている」そして「仕事、働くことは人間形成の場である」と、更に「辛抱することの大切さ」だった。その教訓は、私を目覚ます契機となり、その精神は、いまでも生かされている。
30後半でやっと職場も定着し、定年まで務めあげ、管理職から役員まで昇格した。当然ながら会社の主要会議の一員として発言する場面も増えてきた。意見、提言、質問などしたい時に、声が詰まることがしばしばあった。そんな時、他の人に見られぬように、膝を叩きながら自らを鼓舞して乗り切ってきた。管理職の立場、その役職環境が自然と積極的な性格へと変化し、努力と工夫によって吃音を克服してきた。
私は決して順風満帆に生きてきたわけではないが、私と同様に進むべき道に迷い、壁に当たり挫折し、失敗を味わいながら生きている人は大勢いる。それでも若い人が夢を持ち、英知や若者の発想や感性は、これからの社会には大いに必要である。
その基本は、働くこと仕事をすることの意義を見詰め、社会の一員として行動し自覚することだと思う。私は吃音と言うハンデを負いながらも、また、転職を数十回も繰り返しながらも、何かを学んでいた。その知識を感性として生かしながら、次のステップに活用してきた。
私も80歳の年齢が目前になってきた。人生を振り返ると、いま何も悔いはない。私の生活での精神は忘れられない、先輩の言葉を、更に付記しておきたい教訓があった。それは「約束ごとは守ること・遅刻するな」そして「報告・連絡・相談」は、必ず実践することであった。
いま世の中は日進月歩で技術革新が進んでいる「多様な働き方」の選択肢も無限にある。私が提言できるのは、いくら最新の技術向上があっても、そこに携わるのは人の力であると思う。若い人は、失敗を恐れず働くことで、自分のあるべき姿を将来の夢に描いてその実現に向け、一日一日を大切に行動してほしいと願っています。
(標 語)
諦めず 失敗糧に 再挑戦