【 努力賞 】
【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
明日に向かって生きて行こう
大阪府  小神子 眞 澄 73歳

私は若い頃色んな職業をした。

 まず初めは経理事務員を、それから洋裁師を、そしてクリーニングの従業員。その後は縫製工、身体障害者職業訓練校に行って、機械製図の技術を身につけると、トレーサーとして機械製図の会社に、その後土木製図のトレーサーに、と目まぐるしく変わった。どれもたくさん勉強になった。一つ一つが私の生きる目安になった。事務員をしていた時は、まだ耳が聞こえていたが、その後耳が難聴になり職業が転々とした。色んな職業を変わった結果、私には一つのどうしても成し遂げたい気持ちがふつふつと湧いてきていた。

 今はもうこんな歳だが、元気なうちはやりたいことがある。それは難聴者や耳の聞こえない人の言葉を聞く人である。いろんな悩みや、辛さ、苦しさ、耐えがたさなどを聞くと言う作業だ。

 健康な人には、いろいろ話を聞いてくれる機関がある。しかし耳が悪い人は聞いてくれるところはない。その内、段々と鬱積した感情がたまって、とうとうはち切れてしまうのだ。だから、同じ会社に長く務めている人はものすごく忍耐強い。様々な会社に関わる人は、頭が良い人が多いが、我慢して、我慢しきれなくなるので辞めてしまうのだ。

 私はもう会社は辞めた。働きながら思ったことは、やはり聞こえない耳のことだった。耳が聞こえないのは口では言いようがないほど苦しい。他人は何とも思っていないことが、耳がきこえない人は胸の中でものすごく悩んでいる。ここはこうした方が良いのか、それともああした方が良いのか、と。

 こういう時、傍に何でも聞いてくれる人がいると、心強いのである。

 私は今職業がない。暇である。こんな叔母さんだけど、話ぐらいは聞いてあげられる。悩んだことや、苦しいことは聞いてあげられる。助言は出来ないかも知れないが、聞く作業は出来る。助言は出来ないと言ったが、共に考えその人の身になって、どれが一番いい方法か考える力はある。そして前向きになって、いや前向きにならなくたって、どんなことが生きやすいかは考えられる。生きやすいことを前に押し進めて行きたい。

 私は普通の叔母さんである。こんな叔母さんだけど、話は聞いてあげられるのだ。勿論耳が不自由だから、筆談や手話や、口話や空中文字などが主体になる。私はまだ手話が満足にできない。できないが、一生懸命に見ていたら分かることもあるのである。勿論手話だけではだめだ。口話も一緒にして話すと分りやすい。私は、出来るだけの受け身で待っている。

 今は、大阪の○○会と言う団体に入っている。ここも段々、高齢者が増えてきて、若い職業を持っている人が少なくなった。ここで話しを聞いてあげている。勿論、話したことは誰にも言わないと言う約束である。

 この間一人の老人がきた。この人は家族の誰にも相手にされず、暇と退屈を持て余して来たのだ。私の家で、昼頃から一緒にいて畑に行ったり、そこで芋のつるを抜いたりして晩御飯を食べて帰った。とても満足した顔で帰って行った。

 そのあとは四十代後半の男性が来た。この人はお嫁さんを探していた。このお嫁さんも同じ団体から選んだ。上手くいっている。

 本当は会社の、いろんな溜まったものを吐き出してもらいたかったのだが、これも大切なことだ。

 これからは、こういう事が増えてくるのかもしれない。耳が悪くても、明日に向かって精いっぱい生きて行こう!

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