小学四年の時の文集に「私は将来音楽の先生になりたい」と書いた事を覚えている。
明治生まれの母から「これからは、女の人も職業を持った方がよい」とか、父からは「先生という職業は、男女の給料差がなくていい。働き始めたら、恩給がつく25年間は続けるべき」と聞いた様な気がする。
母は音楽の道に進みたかったが、父親に「音楽でメシは食えない」と言われ「女は家庭科の先生に」をシブシブ受け入れたという。
父と母は職場結婚し、二人目の子供をもうけた時のこと。子供達をお子守さんに見てもらっていた。
ある日、お乳をあげに学校から戻ると、お子守さんは遊んでいて、子供は砂をなめていたという。
それを見て、ああ共稼ぎはここまで、と家庭に入ったという。
父は定年少し前の53歳まで勤めた。酔って帰ってきた時など、職員会の様子や学校の事を自慢げに話してくれた。「楽しそうだなあ」とうらやましく思った。
姉達も教師になって、クラスの子供達全員を家に招き、ボール遊びや幻灯を見せたりしていた。私も一緒にバドミントンで遊んだり、一家総出で、昼食作りをしたりした。心がうきうきとしてとても楽しかった。
学期末になると、夜中までテストの採点や通知表つけなどをやっていた。その時の姉は大変凛々しくて、頼もしげであった。
姉達のそんな姿に触発され「将来先生に!」の夢は、どんどん大きく膨らんでいった。
大学受験の時、英語か音楽の先生かで迷った。「何十年も続けるのなら、英語より、歌ったり楽器を演奏したりの音楽の方が楽しそう」と音楽科を選んだ。
母の影響で、歌う事が好きだった。姉の影響で、小学六年の時からピアノを習わせてもらっていた。おかげで受験には対応できた。
因みに、ピアノの月謝は八百円、二軒長屋の我が家の家賃は、千円という時代だった。
附属中学校での教育実習は、夜11時位までの研究続き。最後には歯が浮いて、物がかめない程の三週間であった。ハードだったが、楽しくやりがいのある毎日だった。
39年間の教師生活を全うできたのは、この時の基盤があってのことと思っている。
小学生の頃に聞いた、母や父からのあの助言も生かせた。第一の仕事人生であった。
何が楽しいといって、今までわからなかった事が、わかるようになり、
できるようになった時に見せる生徒のうれしそうな顔。それを見るのが、何とも嬉しく喜びだった。
「ああよかった。生徒の役に立っている。父母の方も喜んでいてくれる」この感激、充実感は「仕事を続けてきてよかった。これからもやり続けよう」の原動力につながった。
その間に“教えることは学ぶこと、そして共に未来を語ること”も心に深く刻んでいた。
七一歳の今、趣味を生かして“人に教えること”を始め、八年がたった。
それをやっている人の年齢は、六十代で七百人、七十代で二百人。八十代だと四十人、九十代では二人になると聞いた。
ここからは体力勝負、健康管理が大事になると、この数字から教えられた。
“教える”という楽しみを継続するには、肥満解消、降圧、足腰強化が必要だ。三日坊主の私には、これがなかなかの強敵。
117歳長寿者の生き方の秘訣“おいしい物を食べる。よく寝る。ゆっくり暮らす”もヒントにさせていただいている。
第二の働く人生は始まったばかり。働けるって幸せだ。ちょっとしたお小遣いになるのも魅力。丈夫に産んでくれ、好奇心旺盛に育ててくれた父と母に感謝あるのみだ。仕事を勧めてもらって、こんな楽しみももたらしてもらえて、本当にありがたい限りだった。