還暦を迎えると同時に自動車会社を定年となり退職して間もなく十年になる。
昭和40年春、高校を卒業後、のんびりする間もなく会社のあるT市の独身寮に向かった。翌日、配属先は車のバンパーをメッキする前の研磨作業だった。高度成長の波に乗り、車の需要が増え、あちこちに工場が建設された。勤務対応も当時は交代制の昼夜勤務のフル生産だった。
毎日、何十本ものバンパーを振り上げ、羽布を取り付けたグラインダーに身体を預けながら磨いていた。そんなとき父が病気で亡くなり、帰省したある日、母が言った。「この近くに募集している会社があるから試験受けてみたらどう?」家に帰る度に痩せていく私を見て、身体を心配してのことだろうと思った。確かに作業中は布マスクを付けていたが、鉄粉の混じった粉塵が作業場の空気をどんよりと灰色に染めていた。だが、会社は辞めなかった。振り返ってみると、それにはいろんな理由があった。一つに私たち団塊世代の仲間たちが周囲に多くいた。私の職場に限らず、毎日のように一人、二人と辞めていく同年の仲間の一人になりたくないと思ったからだ。辞める人は仲間を誘う。引きずられるように退社する一人になりたくないという変なプライドと反骨があった。二つ目に辛さを比較するものがあったからだと思う。私は中学、高校を通して部活動は陸上競技の短距離だったが、そのときの練習の苦しさと仕事の辛さを比較していたところがあった。暑くても寒くても、一年中決められた保護具を身に着け、トイレの鏡で自分の顔を見たとき「これが自分の顔?」と驚くほど、埃にまみれ、思わず込み上げるものがあった。だが、まだ部活の練習の方が辛かった。仕事がきついからこそ、人との結びつきが強い職場になり得ていたことが幸いだった。一言でいえばこれが「職場力」だったのかも知れない。
数年後、母一人、家に残しておく訳にもいかず、寮を出て自宅から電車通勤することにした。だが、会社まで二時間以上かかった。多残業と通勤時間により、どうしても睡眠時間が削られたが、慣れると降車駅の数分前には鉄橋を渡る音で目が覚めた。
定年が近づくころ、私は折角この世に生まれ、生活している以上「車造り」だけで人生を終えていいのだろうかと考えるようになった。「退職したらいろんな仕事を経験してみたい」抑えられないほどの沸々とした心の高ぶりをみせた。
その後は、短い間にいろいろな仕事を経験した。海外に輸出する車部品の物量工場、パート女性に囲まれながらトレイに並べた肉まん製造工場、製鉄会社の守衛、その他数種の仕事を経験、その度に感じたことは、家族のためにとか社会に貢献する等と大それた考えではなく、単純に「仕事は生きるための糧」だと思った。今は地主さんに借りた土地で、小さな家庭菜園を楽しんでいる。周囲には畑を囲むように雑木林が繁り、風に揺れる木々と、そこに集う大小の鳥たちのさえずりを聴いている。
午前中の晴れた日にはほとんど、畑に置いた椅子に座っているか、土を耕していることが多く、穏やかな気持ちになれる私の唯一の楽しみでもある。
過ぎ行く季節は正直だ。雨に打たれるあじさいの季節が過ぎると、待ちかねたように蝉が一斉に鳴きはじめ、やがてつくつくぼうしが夏の終わりを告げる。
この地に移り住んで三十年、四季を通して和ませる人々のふれあいと、縁に囲まれた風景が自宅近くにあるだけでも、私にとって大切な財産に思えてならない。