【 努力賞 】
【 テーマ:多様な働き方への提言】
違った道でも
大阪府  佐 藤 信 昭 69歳

私は昭和44年4月に四年制大学の林学科を卒業した。大学の先輩のほとんどは農林省(当時)、林野庁、営林署といったところに就職していた。また同じクラスの学友の大半もそれら官公庁やその関連機関に職が決まったことを後に知った。その時、私は少数派だったかもしれない。というのは、卒業生が定番のようにそれらの分野に進路を求めるのとは違い、海外に興味を持ち始めたこともあり、世界に羽ばたけそうな総合商社の道を目指したからである。そして入社が内定。希望部署として本社(東京)木材部と記入したものである。営業であるが、勉強した林業知識が役立ちそうだし、なによりも木材を買いつけるために海外に行けるという希望があった。

 ところが、実際に入社して東京本社で数日間の研修の後に渡された辞令は、なんと広島支店の工作機械課勤務だったのである。頭の中が真っ白になったという感覚を初めて味わった。あまりにも大きな衝撃にしばらくは茫然自失の状態だった。同期に入社した約15名の全ては希望通りの部署に配属されたというのに、本社採用で支店に廻されたのは私一人だけだったのである。予想だにしなかった広島という遠隔地で、しかも何の知識もない工作機械の営業だという。不条理な運命に絶望しかけ、すぐに辞めようかと思った。

 しかし、数日経過して、冷静になってみると考えは徐々に変わっていった。たとえ、木材部に配属されることになったとしても、大学で学んだ学問と商取引は根本的に別であり、要は木材という商品を売買する現場に投入されるのであって、商習慣も商売上のルールも知らないから、ゼロからの出発である。そう考えると、知識がない工作機械を扱うことも同じではないかと思えてきた。知識がないなら勉強すればいい、先輩や上司に訊けばいい。結局、辞令を受ける決意をして、22年間育った東京を一人離れ、広島支店に赴任することになった。

 支店ではベテランの上司に接客マナー、商業上のルール、そして商品知識をたたきこまれ、それからは旋盤、フライス盤、ラジアルボール盤、横中ぐり盤、シカル盤、プレス機などそれまで馴染みのなかった工作機械を鉄工所に売り込む毎日だった。関連する図書も買い勉強した。そのうちに、それらの機械が実は生活の身の回りのものにはなくてはならない存在だということが次第にわかってきた。つまり、自動車、自転車、バイク、あるいは事務機器、電化製品、産業機械、ミシン、つり具に到るまで、全てこれらの機械によって生産され、また身近なプラスチック製品は金型によって製造されるが、その金型を作るのも工作機械なのである。

 そんな認識を持ち始めると巨大な鉄の物体がなんだか頼もしく思え、身近に感じるようになったから不思議である。入社して3〜4年もすると顧客も増えてきて、業界にも詳しくなり、広島支店に赴任する前、あれだけ悩んだことがうそのようだった。そうやって築いた基盤があったからこそ、その後、工作機械及び産業機械の分野で営業として、数十年間に亘り活躍できたのではないだろうか。

 専門外の道を進むかどうかというあの時の逡巡、そして決断。それが正しかったかどうかはわからない。学生時代に抱いた海外での活動。そんな夢を絶って飛び込んだ世界だった。運命といえば運命なのだろう。しかし、それができたのは若さがあったからこそであったが、その後の体験と勉強する意欲が私を支えてくれ、そして大きく成長させてくれたことは間違いない。そう思うと感無量である。

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