【 努力賞 】
【 テーマ:多様な働き方への提言】
私の挑戦
大分県  松 岡 幸 三 65歳

若い間は自分が本当にしたいことか、なかなか分からない。そして、ふとしたきっかけで、自分と対局にあることが自分の生き甲斐になっていることがある。私の拙い経験をもとに、「働く」とはどういうことか考えて頂ければ幸いである。

私は高等学校の国語の教員をしていた。三十代半ばまで、大学で水泳部にいた私は体育系の部活動が生き甲斐だった。しかし、それを突然変える出来事が私におこった。ある高校の私の研究授業の反省会のことだ。みんなが順番に意見を言う中で、ある先生だけが、怖い顔をして目を閉じたままだった。司会の先生がその先生に発言を求めると、その先生はにわかに目を開き、机を叩いて、それまでにない厳しい口調で言った。

 「生徒が授業がわかりにくいと言っていたのがよく分かった。あなたはうちの学校の生徒をなめているんじゃないか」

 と、私は青ざめ、何も答えることが出来なかった。そのころ私は教員になった頃の緊張を忘れ、

「研究授業は、一種のイベントだから適当にこなしておけばいいだろう」

と安易に考えていたので一言もなかった。それから間もなくのことだ。その先生が私に

「自分は歳を取ったから、お前が代わりに、放送部の顧問をしなさい」

と、言われた。本来不器用で、少し吃音もあり、放送機材のことも何も分からない私に自分の後を継げというのだ。

その先生のそれまでの実績と指導を見ていた私

「私にはとても出来ない」

と辞退すると、

「私はまだこの学校で、全面的にバックアップする」

と、言ってくれた。私の中には前回叱られた記憶があるので、顧問を引き受けることにした。そして、生徒と一緒に発声練習をする毎日を送った。私が先生のアナウンスの練習に関して

「どうしたら、生徒はうまくなるでしょうか」

と疑問を投げかけたことがある。すると、先生はすぐに、

「原稿の書き替え20回、読み込み1万回」

と、答えた。私は心の中で舌を巻いた。

気がついてみると体育系だと思っていた自分は、放送部の虜になっていた。そして、毎年、大分県代表として、全国大会へ行くようになっていた。大分県内の他の高校にも呼びかけ合同練習会も行った。そのうち弁論の顧問を掛け持ちすることが多くなった。弁論も放送と同じように初心から勉強をはじめた。

 回を重ねると放送の全国大会でも、弁論の全国大会でも全国最優秀賞を貰うこともでき、「センバツ高校野球」の高校生司会もするようになった。今では大分県内の全ての放送局のキャスター及びアナウンサーがその放送部員達の中から排出するようになった。

 ある日、最初に書いた先生から葉書が届き、

「新聞で放送部と弁論部の活躍を見るのを楽しみにしています。よく頑張りましたね」

と、いう内容が書かれてあった。私は涙が出そうになった。その先生は、ずっと私を見ていてくれたのだ。

 高校教員を退職した後、私が参加したのはITボランティア「iの手」である。これは「大分情報学習センター」で行われる「IT講座」のサポートをする役割だ。パソコンもそれまで、私にとってストレスでしかなかった。しかし「iの手」に入って以来、パソコンが楽しくなり、今では多くの機能を使いこなすことが出来るようになった。

 また、以前の同僚で、現在県内のある短期大学で学部長をしている方から連絡があり、留学生のスピーチコンテストの指導を頼まれた。私はこの大会でも順調に実績を上げた。ある中国人の女性が優勝した後に、突然ハグされ驚いたこともあった。

 放送、スピーチ、パソコン、どれも私が苦手としていたものが、生き甲斐や楽しみになっていたのだ。人から指示されて仕方なくするのでなく、自分からアグレッシブに取り組むことがいかに大切なことか思い知らされた。

 あの、今は亡き研究授業での叱責が今の私を作ってくれたのだ。今の若い人も人の批判を真摯に受け止め、難しいと思えることに敢えて挑戦する気持ちを忘れないでほしいと思う。

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