【 努力賞 】
【 テーマ:多様な働き方への提言】
長男への助言らしい言葉
福岡県  田久保 茂 和 60歳

我が家の長男がとうとう就職活動に入った。

なれないリクルート・スーツ、先の尖ったヤボったい革靴、いつみても下手クソな結び目のネクタイ、などなど、数えあげればキリがない就職学生あるあるを目の前でリアルに見れる。自分が就職活動をしていた数十年前とつい較べてしまうのだが、やはり時代の差は大きいと実感する。圧倒的な情報量の多さや労働人口の減少など社会や経済情勢の変化も著しい。改めて人が仕事を選ぶ基準、会社が人を選ぶ基準とは何か?と考える。

現在の社会は経済的な原理、即ちお金の有る無しで全ての価値観が決定している様に見える。特に若い世代程、その傾向が強いのではないか?思えば若い頃から自由に転職をくり返して来た私が父親面して長男の若さを批判しているが自分の過去を振り返れば、いかがなものか、である。仕事∞働く≠ニいう活動が自分の意義の中にちゃんと定着していなかった自分だった事は確かだった。

今より全然情報量が少なく、職種もかなり限られていたし、就業選択の幅も狭かったその当時。「役者になりたい」「放送作家になりたい」など非現実的な希望を持った大学生の私には全く現実レベルで仕事というものがどうゆうものかわかっていなかったーと今ではしっかり自己分析できる。間違いない!

現在の社会は経済のグローバル化もあり、色々な社会での格差が激しくなっている。非正規社員という名の就業弱者というべき立場の若者(中年も)が増加し、一つの社会問題にもなっている。私の勤める会社の周囲でもワーキング・プア≠ゥなと思う人達が見うけられる。そこには就業内容や年齢、作業量、時間に見合わない低年収の壁が存在するのである。

少なくともウチの長男にはそんな領域に落ちて欲しくないし、正社員としてスタートする事だけは最低条件として頑張って欲しい。

働き方の多様性≠ニいういかにも聞こえの良いネーミングで何も知らず新卒の若者達の未来が歪められている事を見逃してはならないだろう。以前から話題になっている<派遣><臨時><非正規><契約>などという名称のつけられた特別な社員としての雇用形態が今や社会的に認知されてしまっている。もちろん一面には、それを選ぶ若者側にも責任の一端はあるだろう。責任を負いたがらず、上司と付き合いたがらず、残業や転勤を嫌い、海外へ出る事など考えられないーそんな世代が新しい社会人としてデビューし続けているのが今の日本なのである。

もちろん、あれをやりたい、これをやりたい、とか、本当に自分の望む仕事を職業として生活できる幸福な人など、ごくごく限られる事であろう。仕事の中に喜びや生きがいなどを見出せる人もどれだけいるのだろうか?

それでも人間は、働いていかなければならない。どんな形であれ、人が人として社会に関わっていけるのは仕事≠するという活動が中心になる。わが家の長男が暑い中、就職活動を続ける姿に何か、仕事の先輩としてアドバイスできる事はないかと考えてみる。しかし、結局は自分の進む道は自分で決めるしかない。という結論に行き当たる。例え、それが回り道でも、汗や涙を流して働く事、人に後ろ指を指される事がない事、それさえ守ればどんな仕事であろうと決して人生の無駄にはならないと信じている。軽い気持ち、覚悟で転職ばかりの自分の失敗も含め、先ずは自分が信じる仕事場へ飛び込んでみる事である。そして何を仕事にしても、それにどう打ち込み、どう向き合って行くか、だと思う。あと何年かで長い様で短かった私の仕事人生も終了しようとしている。そんな私だからやっと理解できた真理である。

私の長男もこれから社会人として、どんな仕事であれ、真剣に向き合い、覚悟を持ってひたすら頑張ってもらいたい。父として先輩として私なりの心からのエールを贈りたい。

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