【 努力賞 】
【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
同僚の死と転職を通して学んだこと
広島県  植 田 敬 59歳

私はあと数ヶ月で還暦を迎え、定年退職する。約36年間の職業人生を支えてきた言葉がある。それは、イギリスの作家、サミュエル・スマイルズの言葉とされる「天は自ら助くる者を助く」である。

これまで4回転職してきた。一つめは、扱説明書・マニュアルをチェック・作成する仕事。二つめ、三つめ、四つめは、語学学校と専門学校の教員だ。住む場所も東京、広島、大阪、また広島と転々としてきた。働く場所や人、そして仕事内容の変化で、それなりの苦労があった。

私の人生を大きく揺るがす「事件」が起きたのは、東京でのサラリーマン生活をしていた時である。日本語と英語の取扱説明書をチェックする部署にいた。入社して1年が過ぎたころ、八田という2歳年下の後輩が入ってきた。同じ九州出身とあって、妙にウマが合った。ある飲み会で、「僕、全寮制の大学に入学したんですが、2年で退学したんですよ」と言う。詳しく聞いてみると、先輩の言動が気にくわずに抗議しにいったら喧嘩になり、何と、彼が勝ってしまい、寮に居ずらくなってそのまま退学したとのことだった。

そんな彼が、あるプロジェクトに参加するためにヨルダンに行くことになった。得意の英語を使っての通訳である。私の部署は通訳者の派遣も行っていた。成田空港から飛びたつ彼はまぶしく見えた。

それから一ヶ月後、八田のプロジェクト担当者から呼び出され、こう告げられた。「言いにくいことなんですが、八田くん、リンパガンだということで急きょ帰ってきます。」嘘だと思った。診断ミスに違いないと思った。

帰国してすぐの言葉は「あと1年後に、僕、死ぬみたいです」と他人事のように言う。「僕にはわかるんです。これはガンです。」と言って聞かない。その通り、リンパガンという診断になり、それから1年後、八田は逝った。24歳だった。

 彼の死後、私は何のために仕事をし、何のために生きているのかが分からなくなった。そのまま漫然と仕事をしていたある日のこと、新聞紙上で総務省主催の「世界青年の船」の募集に目が留まった。行先はインド・パキスタン・スリランカだ。インドはお釈迦さまが生まれた国。行けば何かの「悟り」が得られるのではないかと思い、参加した。大いに現地の若者たちと語りあった。彼らは日々の「糧」のために必死で生きていた。あるインドの若者が語った言葉が忘れられない。「日本とインドは1000年くらいの開きがあると思う。」その後訪問したパキスタン・スリランカでも日本を模範として、毎日を真面目に誠実に生きている若者の姿があった。私はそれまでの自分の甘えを恥じた。

 この体験を若い世代に伝えたい。その強い思いが心から突き上げてきて、教員になろうと決心した。英語の資格をどんどん取っていった。およそ20校の英語学校や専門学校に履歴書を送った。しかし、どの学校も「未経験」という理由で断ってきた。

この時も「天は自ら助くる者を助く」という言葉を思い出しながら教員の道を探した。そのかいあって、広島にある専門学校が私を採用してくれたのだ。涙がでるほど嬉しかった。

この後2度学校を変えたが、南アジアでの体験を大いに語り、ある女子学生が「世界青年の船」に参加してくれた。

私は、この4度の転職を通して「準備と努力は嘘をつかない」ということを学んだ。努力したからといって必ず成功するとは限らないが、その努力を続けていく過程で人格が磨かれ忍耐力もつく。さらに、大切な人の死を通して、自分は「生かされている」ことに気づき、目の前の人を幸せにしていこうという使命感が生まれた。

これから「第5」の人生が始まる。私は80歳まで現役で働くつもりだ。昨年秋、青少年ケア・ストレスカウンセラーの資格を取った。若者の心にささっている「トゲ」を抜く人生を送っていきたいと思っている。

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