あれは今から38年前。私が大学生になったばかりの頃だった。サークルの先輩に誘われて、大学の近くのスーパーでレジのアルバイトを始めることになった。「自分で働いてお金を稼ぐ」のは、私にとっては生まれて初めての体験だった。
最初の数日、社員さんの横でレジの打ち方やレシートの紙の交換のやり方を学び、いよいよ一人で立つ日がきた。レジを打つ私のたどたどしい指使いに、あからさまにため息をつくお客さんを前にして、このまま逃げて帰りたいほどの気持ちになったことも何度かあったが、一ヶ月もすると、ようやく慣れてきて、レジを打つ手もだいぶリズミカルになってきた。
あれはその年の師走の出来事だった。暮れも押し迫ってきて、店は午前中から大混雑だった。いつものようにレジを打って、会計がたしか898円、そんな額だったと思う。私の目の前の80歳くらいのおばあさんは、それからゆっくりと巾着袋の紐を解き始めた。そして袋の中を掻き回して、ようやく財布を出してきた。大きながま口を開けたかと思うと、今度は小銭を一つ一つカウンターに並べ始めた。私に何度も何度も「いくらだっけ?」と聞き返す。おばあさんの後ろには、もう10人以上の長蛇の列ができていた。後ろに並んでいるお客さんたちが苛立っている様子が手に取るように感じられ、生きた心地がしなかった。
その時、おばあさんの財布の中に、四つに折りたたんだ千円札が見えた。
「お客様、千円札をくだされば、お釣りをお渡しいたしますので。」
私の言葉に、おばあさんは、
「いやいや、また小銭が増えて、財布が重たくなるから。」
と、まったく聞く耳を持たなかった。
ついにおばあさんの後ろの男性客が、
「早くしろよ。」
と、罵声を飛ばした。
ちょうどその時、私の休憩時間の交替要員に先輩が現れた。先輩はおばあさんの会計をメモ用紙に書き留め、商品の入ったカゴを後方にずらして、
「お客様、ゆっくりでいいですからね。」
と、笑顔で促した。そして次のお客さんのレジを打ち始めた。それからレジはスムーズに流れ出した。目の前のお客さんが小銭を用意している時間が数秒でもあれば、先輩はビニールの買い物袋にかごの中の商品を次々と入れていく。とにかく先輩は、レジに入っている間、何もしないで立っている時間は、一秒たりともなかった。
私は休憩に行くのも忘れて、しばらくの間、先輩の見事なパフォーマンスに心を奪われていた。
仕事が終わって、その日は先輩の下宿で夕食をご馳走になった。
「会計に手間取るお客さんには、金額をメモして後に回すなんて、まだ教えてもらってなかったです。」
そう言う私に、先輩は呆れ顔で、
「そんなの誰も教えてくれないわよ。」
って、屈託のない顔で笑った。
「そんなこと、してもしなくても時間給は一緒。でもね、いらいらして待つことを思えば、ちょっとした機転で、お客さんも自分も気持ちよく時間が流れるわけでしょ? あのおばあさんだって、みんなを困らせてやろうと思ってやってるんじゃないんだからね。」
あの時の先輩の言葉は、今でも時々思い出す。私は卒業して教員になったけれど、あの先輩の心がけは、どんな仕事にでも一番重要なことだと思う。
もし私がそのスーパーの社長だったら、先輩のような社員は、喉から手が出るほど欲しい人材だ。
プラスαができる人間になれるように、これからもずっと努力し続けたいと思っている。