【 努力賞 】
【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
私の生きる道
山形県  佐 藤 一 恵 55歳

私は走る八百屋さん、祖母の手伝いで行商の道にすすんで38年目です。

「毎度、お買い上げありがとうございます。メロン、スイカ、バナナ、キュウリ、トマト、ナス、玉ねぎ、人参、ジャガ芋、キャベツ、大根、ほうれん草に花はいかがすか?」演歌のミュージックテープのあとに、祖母が繰り返しマイクでしゃべるこのフレーズが18歳の私には、たまらなくはずかしいことでした。

社会人になって3年後、車の修理工場を経営していただんなさんが急死して、専業主婦だった奥さんは、まだ幼い3人の子供達のため生活のために、実家の兄のバキュームカーの仕事を手伝っていました。夕暮れの桜公園で久し振りに会った祖母にかけ寄り「おばさん…私…この仕事はずかしい…」とうつ向いて泣き出しました。祖母は、奥さんの両手をしっかり握って言いました。「立派なおかあさんだ。この世に、はずかしい仕事なんてひとつもないんだよ」商事会社の採用試験をやめて、ガンに突然倒れた祖父の代わりに家業を選択し、全く想定外の仕事に就いた私は、はじめからお手伝いという意識が抜けきれず、祖母が競売で仕入れしたものを次々に回収し台車に運んで、ダットサンの荷台に崩れないように、しかも取り出しやすいように積んで、運転、配達、野菜の袋詰めをしていました。全ては、祖母の言いつけ通りの作業です。お手伝いから仕事へと意識が変わるきっかけは、夕暮れの桜公園のことがあってからです。

15年後、祖母は腸のポリープをとって引退し、やがて車椅子になり、寝たきりになって、天国に旅立って3年になります。今年は祖母の梅干しがすっかりなくなって、初めて梅干しに挑戦しました。毎日のように、梅を見て味みしていると、土用にひと粒ひと粒、丁寧に天日干しをしていた祖母の姿が思い出されます。若いときは、あれほどはずかしかったフレーズが、今となってははずかしいと思っていた自分がとてもはずかしくなりました。

祖母が引退した途端に、法事帰りの酒に酔ったおじいさんにからまれたり、80歳をこえ歯がなくなってトマトばかり食べている和尚さんに、「何もいらない、あなたが欲しい」なんてからかわれたり、家の前の駐車場を借りているとき、その家の主人に怒鳴られたり、いろいろなことがありました。その度に、常連のおばあさんたちが追っ払って助けてくれました。長い長い付き合いの常連のお客さんたちの生い立ち、武勇伝、最近の痛みの話などを日々聞いていると、自然に詩が生まれてきます。帰宅して、夜原稿用紙に立ちあげて完成すると、色画用紙とマスキングテープで仕上げて本人にプレゼントします。第1号の<おばあさんのネジ>は、地区の文化祭に出品しました。これは、仕事の新しい喜びの発見となりました。

人生半世紀過ぎて私がたどりついたのは、素直であるということは、あらゆる物事のベースができているということ。働くとは己を磨くこと、家族を育むこと、人は仕事で人になるということ。この道以外に、私の生きる道なし。

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若ものを考えるつどい2016 入賞作文
【 努力賞 】
【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
誰のために、何のために?
兵庫県  齋 藤 和 子 55歳

働くことの意味がやっと分かりました。

自分のため家族のためだったものが、仕事が自分のものになり、はじめて会社のため、お客様のため、そして社会のためと、順繰りに長い過程を経て、意識が成長したのです。

 短大を卒業して就いた仕事は、昔から夢見ていた保母職。やりたかった仕事だけに、懸命に取り組めます。受け持った子供たちへ愛情も生まれ、順調で楽しい仕事になりました。

 退職に至ったのは、「保母職員は結婚で退職」という暗黙の取り決めがあったからです。付き合っていた彼との結婚話が進み、保母の仕事は中途で諦めるしかなかったのです。。

 結婚した彼は喫茶店の経営者。その喫茶店の仕事を一緒に取り組みました。ほぼ十年、店の切り盛りと、子育てを両立させたのです。しかし、三人目の子育てが、喫茶店を閉める直接のきっかけとなりました。

 夫婦二人がかかりっきりの喫茶店経営。子供はレジそばの棚に寝かせて、子連れ仕事を余儀なくされます。三人目の赤ちゃんも、やはり職場で育てるしかありません。

 ところが、事態はこれまでと異なりました。赤ちゃんにアトピーが発症。額を覆ったできものが血だらけになるほど深刻な症状です。夫婦どちらにも子育てを頼れる身内は近くにいません。仕事をこなす喫茶店内は常に紫煙が漂い、アトピーにいいはずがありません。

 悩み試行錯誤を経て、ついに店を閉める決断に至りました。田舎にUターンすると、生活はスタート地点のゼロに戻りました。すぐ仕事を始めなければ、生活が大変です。

 選んだ仕事は、保母。もうやりたい仕事を選択する余裕はなく、やれる仕事しか選択肢はありません。臨時職員だからぎりぎりの給与です。少し手当がよくなるので、知的障害児保育通園施設に異動も躊躇なく決めました。

 仕事はより大変になりましたが、やりがいは倍増です。子供たちと接する日々がかけがいのないものになりました。仕事はそうあるべきだと、毎日が楽しくて溜まりません。

 しかし、やりがいと充実感だけでは、どうにもならない事態が訪れました。夫が体調不安で休職状態に。抱える子供は四人、これから教育費が多くかかる時期でもありました。

 迷うことなく転職です。後ろ髪を引かれる思いは当然ありましたが、吹っ切りました。 

新規出店するスーパーマーケットのスタッフが新しい仕事。それまで一度もやりたいと思ったことのない分野でした。でも、やれる自信だけはありました。収入が優先です。

 二年後、健康を取り戻した夫がバリバリ働きだしても、やりたい仕事に戻る気持ちは、もうありません。スーパーの仕事は順調で、新しい担当部署への挑戦も大歓迎です。未開拓の分野に「やりたい!」意欲がたぎります。

「先生、お元気そうで。その節は有難うございました。あの子、高校に通ってるんですよ」

 サービスコーナーに顔を覗かせたのは、知的障害児保育通園施設で受け持った子供の母親。いきなり発作を起こし、暴れたりと、目の離せない子供で、保育は真剣勝負でした。あの施設で卒園を見送った最後の担当保育児です。決して忘れられない子供でもあります。

「みんな先生のおかげです。有難うございました。こちらで働いてらっしゃるとお聞きしたので、お買い物に来させて貰いましたの」

 苦労を乗り越えた母親のいきいきした表情に頬笑み。嬉しい訪問でした。あの「やりたい」仕事が、こんなに素晴らしい成果を生んでいたのです。感激で胸が熱くなりました。

 スーパーの仕事も十年をこえ、サービスチーフとして忙しく毎日を送っています。新人教育も新たな勉強と刺激を貰えるチャンスと、前向きです。子供たちはみな巣立ち、家には料理を用意してくれる夫がいます。幸せです。

 いま確信できます。「やりたい」仕事も「やれる」仕事も決して別物ではなく、いかに働く目的を自身に見出せるかが最も大事なんだと。その答えにようやくたどり着いたのです。

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