三年間のフランス滞在から日本に戻ると、私は職探しのために履歴書を準備した。二人の子供がまだ小さいけれど、もう一度社会に出て仕事を始めようと思った。中国の大学で助手をしていた時、生涯仕事を持って生きることは至極当然なことと思ったが、日本留学中に今の主人と出会ってから転勤で家族共々フランスに渡り、私も学生から専業主婦になった。二人の子供を育てながらもいずれ仕事を探そうと思っていた。私の職探しに主人が一番に理解し、協力もしてくれた。フランス社会の「よく働き、思いっきり余暇を楽しむ」考えや夫婦がともに子育てする姿などは主人にも私にも大きな影響を与えた。
しかし、日本はバブルが弾け、就職状況も芳しくなかった。まして私の様な子持ちで、年齢も三十代半ばの女性にとって、結果は厳しいものであった。待てど暮らせど、企業からの返事は来なかった。そんなある日、新聞紙面に中国のハルビン市で日本某自動車メーカが部品工場を建設する記事が掲載された。私ならこの会社の役に立つであろうと、早速手紙を書き送った。程なくして面接案内が自宅に届いた。私は質問を想定し、準備に取りかかった。ついに面接の日を迎え、男性ばかり八人ほど居並ぶ部屋に案内された。人事部長らしき人が口を開いた。
「二歳と四歳の子供は誰が面倒を見ますか。弊社の仕事は、国内出張も海外出張もありますよ。その辺大丈夫ですか」
「子供は保育園に預けます。主人も協力してくれます。もし仕事が決まれば、もっと近い所に家を引っ越すことも考えています」
仕事への意欲やスキルも聞かず子供の話ばかりになり、私は不思議で仕方なかった。二日後に届いた不採用通知を見て、やっと理解した。子供がハンディか、今後も仕事が見つかる保証などない。とうとう私は夜も眠れなくなり、自分の将来を悲観するようになった。それでも、私は諦めずに友人知人に仕事を探している旨を手紙に書いた。ついに一枚の年賀状が届き、私をびっくりさせた。
「子会社に移った。一度顔を見せて」
日本企業で研修生をしていた時の上司からだった。期待と不安を胸に元上司のいる会社を訪ねてみると、
「この会社にはまだ人材が足りない。あなたが持つ専門知識が必要。うちで働かないか」
一瞬躊躇った私に元上司は言葉を続けた。
「子育てしながらでも仕事がちゃんとできる。女性が活躍する時代は必ず来る」
今すぐに八時間働けなくてもいい。派遣制度を利用する短時間勤務を勧めてくれた。
子供たちは私立保育園に預け、私は社会に復帰した。会社では新卒の様なフレッシュな気分で仕事をし、短い時間勤務ながらも、次第に成果をあげられるようになった。往復の通勤時間と会社での実働時間を合わせると、一日七時間も仕事のために費やしているが、苦にはならなかった。
家では、主人の協力のおかげで、子供たちはすくすくと育っていった。小学生になると、子供たちは家事を手伝うようになり、学校の宿題や持ち物の準備なども私の手を煩うことがなくなった。放課後はどこに遊びに行くか、全て自己の安全管理し、行き先についても必ずメモを書いてくれた。
私は仕事をすることで、充実感と達成感が得られ、人生が豊かになった。親を見て育った子供たちは社会人となり、独り立ちした。18年前の仕事探しを諦めなくて本当によかった。
仕事は人生のすべてではないが、人生を豊かにしてくれる。すでに50代半ばの私は、70歳になっても出来る仕事を考えているこの頃である。そして若い世代の女性たちにも生涯仕事を続けてほしいと思う。社会のみんなで応援しよう。私も応援するよ。