高校と支援学校が交流し、学び合うシステム。
これが、これからの日本を、人々の働き方を変えていく。
大学を卒業後、高校の教員になった。文化祭、体育祭、大会競技での生徒引率、挨拶や服装指導。生徒が興味を持つよう授業を工夫し、全人的な成長を願って教育にあたった。行事での笑顔、大会に向け練習に励む真剣な眼差し、合格通知でのうれし涙。生徒の表情が鮮明に思い出される。達成感を感じることも多かった。
そのような中、妹から相談を受けた。子どもが、発達障害として専門機関を紹介されたという。これがきっかけとなり支援教育の免許を取得、教員22年目で支援学校勤務を希望した。
初めての支援学校は、肢体不自由教育を主とする学校であった。生徒の身体は年齢や栄養状態、障がいの状況などによって異なっていた。肢体だけではなく、聴覚や視覚など重複した障がいを持つ生徒も多かった。その後転勤し、現在は、自閉症、ダウン症など主として知的障がいを対象とする支援学校に勤務している。
慣れない支援教育に戸惑うことも多かったが、自分でも意外だったのは、「もっと早くこの世界を知るべきであった」という悔しさを感じたことである。五感を総動員させて生徒に感じてもらう授業の組み立て方、生徒に伝わりやすい指示の出し方、注目させる工夫、生徒の気持ちを尊重しつつ自分の考えを示す話し方など、支援教育で学んだことは多い。このスキルがあれば私の子育ても変わっていたかもしれない。
ここからが本題である。
高校と支援学校の両方を経験する教員は多くはない。それぞれの教育は高い専門性を持つ。高校の教員は高校としての指導を極め、支援学校の教員はその障がいに関するスペシャリストになることが、限られた予算と人員配置の中で最も効率的な方法であろう。
しかし、その高い専門性を維持しつつも、相互に交流する必要があると訴えたい。
現在、高校と支援学校との間には大きな隔たりがあると私は思う。支援学校の教員は、高校のことがわからない。高校の教員は、支援学校のことがわからない。教員の相互理解は進んでいない。生徒はどうであろうか。教員が理解していないのだから、生徒にとっては自分が属さない世界は謎である。互いに謎に思いながら、生徒は交わることなく成長し、やがて社会に出ていく。実にもったいない。これでは、豊かな共生社会は築けない。
そこで私は、高校と支援学校が交流し、学び合うシステムの構築を主張したい。継続して交流することで得られるものは大きい。教員にとっては、高校と支援学校の両方を知ることは財産となる。特別な支援を必要とする生徒への支援の方法を知り、体得していく。それは、高校においても応用できるスキルである。また、高校教育の現状に触れ、高校に求められているものを知ることは、教員として広い視野を保ち、現代社会の在り方を考えることにつながる。生徒にとってはどうだろうか。相互の世界を垣間見て、自分の身の周りの物差しでは測りきれない世界があることを感じることに意義がある。障がいを持つ人と健常者が共に生きる社会を想像する力が育ち、高校や支援学校を卒業した後の生活や職業の選択肢も広がっていくことだろう。
もちろん、義務教育段階での交流も大切であるが、特にも、高校と支援学校という段階での交流を多く設定するべきだと考える。その理由として、人としての価値観や判断基準が確立しつつあるのが高校時代であることを挙げたい。義務教育ではないものの、多くの人が高校生活を経験する。その段階で、社会には多様な人々がいることを知り、広く社会の在り方を考えることが、その後の人生の選択に深みを与えていく。
今、学校で学んでいる若い世代が、次の社会を担っていく。教育の成果はゆっくりと現れる。高校と支援学校が交流し、学び合うシステムを構築することから、日本を、人々の働き方を変えていくのはどうだろうか。