【 努力賞 】
【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
コミュニケーション
大阪府  七 海 44歳

私が社会人になった時は、パソコンも携帯電話も一般には普及しておらず、ポケットベルがようやく出回り始めた頃だった。そして現在、日本を含めた世界は様々な進化を遂げ、当時は夢のような話だったことが実現できるようになってきた。

私は学校を卒業してしばらくは定職に就かず、アルバイトを転々としていたのだが、1年近く経った頃、ようやく腰を落ち着けて働くことになった。

その会社に女性の上司でIさんという方がいた。Iさんは優しくも厳しい方で、私は彼女から仕事のやり方や社会人としてのマナーをとことん叩き込まれた。私はアルバイトだけで社会を知った気になっていたが、自分はまだ社会人として世の中では通用しなかったのだと分かって愕然とした。叱られて悔しくて、会社のトイレでこっそり泣いた日もあったが、彼女は人を褒めるのもとても上手だったので、単純だが私は褒められたい一心でがむしゃらに働いた。

彼女から教わったことの中で特に印象に残っているのが、コミュニケーションの大切さだ。私は人見知りで人とコミュニケーションを取ることが苦手だった。ともすれば「しんどくても人に頼みたくない。私が我慢してやればいい」などと、一人で仕事を抱え込むことが多かった私に、「一人で仕事をするな。組織に属している以上、自分さえ良ければいい、自分さえ分かればいいという仕事の仕方はやめなさい。常に周りを見て、後の工程に関わる人のことも考えながらやりなさい」「仕事の空き時間に、どんな些細なことでもいいから自分から声をかけなさい。人と気軽に話ができるようになると、仕事もスムーズに進むようになる」そう言い続けた彼女の指導とサポートのおかげで、私は少しずつだが人見知りを克服していき、社会では知識や技術、経験はもちろんだが、何よりもコミュニケーション能力が最大の武器になるということを教わった。

1995年1月。その時Iさんは兵庫県明石市に住んでいて、職場のある大阪市内まで通って来ていたのだが、阪神淡路大震災が起こった時、彼女と連絡が取れなかった。家の電話が全く繋がらなかったため、他に連絡の取りようがなかったのだ。私たちの部署は部署ごとよその会社に出向のような形だったため、本社とは別のところに職場があった。本社の人はもしかしたらIさんの安否を確認できていたかもしれないが、末端の私には情報が入ってこず、「自宅で待機するように」と通達があっただけだった。

Iさんと再会できたのは震災の日から3日後だった。なんと明石の自宅から、大阪市内まで歩いて来たと言う。私たちは手を取り合って、涙を流して再会を喜んだ。

現在、メールのやりとりだけで、相手の顔も知らず、会うどころか電話で話をすることさえなく仕事が始まり、そして完結することは普通にある。確かに時間の短縮になるし、コストも減らせる。至極合理的だ。だけど『便利』と引き換えに失われてしまったものがあるのではないだろうかと感じることがあった。

しかし近年日本で起こった震災の時のように、その『便利』が不測の事態においてとてつもない力を発揮することがある。阪神淡路大震災の時、今のようにインターネットやスマートフォン・携帯電話が普及していたら、もっと早くIさんの安否を確認できただろうし、気が遠くなるような距離を歩かせることもせずに済んだだろう。それを考えると、現代のコミュニケーションツールは、失われたものを補える以上の価値があるのかもしれない。

Iさんは数年前に定年退職され、今は悠々自適な生活を送られている。私は何度か転職し、現在は当時とは全く違う分野で仕事をしている。

今の私があるのはまぎれもなく彼女のおかげであり、今でも上司として、一人の人間としてとても尊敬している。

これからも私はずっとIさんの教えを胸に、『便利』とうまく共存しながら、自分も会社も周りの人も皆が幸せになれるような仕事をしていきたいと思う。

戻る