【 努力賞 】
【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
窮すれば通ず 

−ある精神障害者の働き方について―

高知県  朝 田 蒔 子 41歳

 私が新卒で入社したのは、東京都心にある、IT企業だった。入社三年目には東証一部に上場するほど急成長したが、ベンチャー企業の御多分にもれず、業務は常に窮迫していた。終わりの見えない深夜労働と休日出勤に、私の心と身体は消耗し、ついに「うつ病」を発症した。働きながら通院していたが、病状が悪化して仕事を辞め、30歳を過ぎた頃、両親が老後を過ごす高知へと帰郷した。けれど病状は回復せず、その場しのぎでフリーターと無業者を繰り返した。

 転機が訪れたのは、転院し、新しい医師に「そううつ病」だと診断されてからだ。先生は私に、障害者手帳の取得を勧めた。それは、自分が精神障害者だとオープンにし、公的機関の支援を受けながら職に就く、ということだった。考えたこともない人生の選択肢だったが、病状が安定していたこともあり、迷いつつも決心をした。その年末には手帳を得、支援機関の援助者の助けを受けながら、とある独立行政法人への就職を決めた。

 新しい職場は、高齢者や障害者の雇用に関する業務を行っていて、忙しいが明るい雰囲気のところだった。私の担当は高齢側で、高齢者の継続雇用を奨励するため企業訪問を行う外部スタッフと、指示を出す本部のあいだに立ち、スケジュールを調整する係だった。非正規職員ではあったが、業務の内容は幅広く、それなりに慌ただしい日々を送ることとなった。

 私にとって初めての「精神障害者」としての仕事は、順調とは言いにくかった。組織から離れて久しかったので、業務に必要なコミュニケーション能力が足りなかったが、さらに、私自身が「障害者は仕事ができない」などと笑われることを恐れ、人間関係に尻込みしてしまった。そのうえ、障害があるためできないことを、理由を隠したまま押し通してしまい、周囲とのあいだにあつれきが生じた。障害を公表したことが逆に足かせとなり、私は仕事を辞めることばかり思いはじめた。

 障害者であることにピリピリしていた私を落ち着かせたのは、「職場で大切なのは、障害のあるなしではなく、仕事ができるかどうかなのだから」という援助者の言葉だった。考えてみれば、仕事能力とは機能的なものであり、個人に貼られたレッテルではない。そして、仕事のでき不出来は、障害だけでなく、いろいろな要因で決まってゆく。そう思って周囲を見渡せば、高齢者、妊娠・育児中の女性、母子家庭の母・父子家庭の父など、様々なハンディキャップを持ちながら、懸命に働いている人がいた。彼らはいろいろな状況に置かれ、また、発揮できる力もまちまちだろう。多種多様なこの世界で、「障害者」だけを特殊なレッテルだと思いこみ、必要以上におじけづくことはないのではないか。

 そう気づいてから、私は愚直に働くよう心がけた。幸い、パソコン能力は足りているようだった。一方、高齢者雇用や労働政策については理解が浅かったので、一所懸命に勉強した。その甲斐あってか、難解な文書が次第に読めるようになり、業務を円滑に行えるようになった。それとともに、上司や同僚、外部スタッフとも打ち解け始め、「最近、頑張りゆうね」と声をかけられる機会も増えた。自分の仕事に自信がつき、高齢者雇用の一助となれたことを、素直に誇らしく思った。

 四年間の労働契約期間を満了して、職場を離れるときが来た。精神障害者は職場への定着率が低いと言われる中、自分ではよくやったと思っている。私は障害者で、かつてフリーターや無業者だった。その上で、この経験から学んだことがあるとすれば、「一見、否定的なレッテルを貼られたと感じても、それを過剰に悲観する必要はないのではないか」ということだ。仕事能力には個人差があり、世間には多様な人がいる。被害妄想に苦しむより、積極的に社会参加して己の能力を試してみる方が、存外、楽なこともある。当然、試行錯誤は重ねるが、真の心の安らぎを得るには、これが最良の方法だろう。

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