私には仕事をするうえで、先輩であり目標にしている人物が一人いる。母である。私は男性なので本来なら父が目標だと書くことが他の人たちに分かってもらいやすかもしれない。けれど、私の場合は母である。
私は母の仕事をよく知っている。父がサラリーマンとして、働いている間、母は兼業である農業を営んできた。それは、子どものころからの私の見ている光景の中に、母の働く姿があったということでもある。
私の家の農家は、山椒は5月に収穫し、梅を6月、ミカンは11月に収穫のシーズンを迎える。そして、それぞれの作物には、それぞれの育て方がある。
それは女性一人では到底出来ないほどの仕事量である。
母は父と結婚し、私が物心ついたころには毎日懸命に農業を営んでいた。
父が他界し、私が福祉の仕事を辞め、農家を継ぐといってからは兼業だった農家が専業となった。
私が福祉の仕事を辞めようか思案している最中にふと思ったことがある。
毎日、同じ時刻に出勤し、上司や先輩に叱られながら仕事を覚える。仕事を私が一通り覚えた頃に後輩が新人として入社してくる。私が今度は仕事を指導する立場になるけれど、私は人を叱りつけるのには慣れていない。自由に育てるといっても、本当は指導することから逃げていたのかもしれない。
そして思ったことがある。仕事というものは決して楽しいものではない。仕事は辛く苦しい、そして、どの辛さを我慢できるかが、自身の職を探すということだと気が付いた。
私が小さい時、野山を走り回り畑が私の遊び場であった。小さい時からミカンの収穫を手伝い、けれど、それは仕事ではなく、母にお手伝いを通して甘えたかったことと、母の持つコンテナやその他の道具が重いため、母が辛そうで、子ども心に手伝おうと思ったこと、そういった事を心の片隅に置いて私は育ってきた。
そう思ったときに福祉の仕事の辛さやしんどさには私はむいておらず、同じ辛さでも、農業の辛さなら私は我慢できると思えた。
そして、福祉の仕事を辞め、現在は母と二人で農業を営んでいる。農業の仕事は夏暑く、冬は寒い、梅やみかんが実るその場所は、段差のある斜面となっており、その場所を、収穫期には梅やみかんを肩掛けに一杯にし、一日何回も畑を往復しなくてはならない。
けれど、こういった辛さは私には我慢できる。給料もそれほど高いとは言えない。質素な生活で倹約しなければならない生活である。
ただ、それでも私は満足している。その平凡な生活に、そして、それが豊かということかもしれない。
小さい時から見ていた母は夏の暑さや冬の寒さにめげたことがない、それが当たり前だと自分に言い聞かせ、働いている姿であった。
それだからこそ、農業の役割分担ができていく、重いものは私が持ち、傾斜がきついところは私がそのエリアの担当となる。そしてそれを私は辛いとは思わない、それは、母が無理をしてきた分、体を痛めているのを知っているからである。私がしなければ、それでもきっと何の文句も言わず母は今の私の仕事をするだろう。母が農家の仕事を通して私に送ったメッセージは、その仕事のしんどさと、それでも、働くことには意味があるということである。そう思っている人に難癖をつけるわけにはいかない。そのため私も毎日懸命に働いている。
仕事を選ぶとき、まだ若かった私には多くの選択肢があった。その選択肢の価値はすべて同等で、福祉の仕事を選択する時も、求人票は沢山あった。そのため、私は百人いれば百通りの仕事があってもいいと思う。ただ、今日では選択肢が多すぎるように感じる。何を仕事と選んでも、おそらく違う仕事がよかったと考えるようになる。
その時、胸に手を当てて考えて欲しい。どういうしんどさなら、あなたは我慢できますかと。