前職を辞して地元に帰ってきた私は、毎日同じ時間帯に、あるスーパーに通っている。そこには、平日の夕方4時から夜9時まで働いている、レジのおばちゃんがいた。おばちゃんの手は素早く正確に商品をスキャンし、一息つく間もなくパズルのピースを埋めていくかのようにカゴの中に収めていく。それはまさに職人技。毎日通っていたので、おばちゃんとは顔見知りになり、レジをしている数分間だけ話をする仲になっていた。おばちゃんの手さばきが、昔好きだったゲーム『ぷよぷよ』の連鎖みたいに鮮やかだったので、おばちゃんのことを『ミスぷよぷよ』と密かに呼んでいた。
その後求職活動を続け、1ヶ月後に職を得ることができたが、それは非正規雇用である契約社員だった。30代後半だったこと・求人が少なかったこと・未経験だったことから考えると、健闘したとは思う。就職できたことを、誰よりも早く彼女に伝えた。
「よかったじゃない!その会社で頑張っていい女の子見つけ!」
しかし雇用形態に不満を持っていた私は、素直に喜ぶことができなかった。
仕事の方は未経験業種だったので、毎日が新鮮だった。その一方で、いずれ教育関係の仕事をしたかった私は、毎日仕事帰りにカフェに行って勉強していた。彼女にいろいろ話したいことはあったが、会いに行くことは減っていた。
そんなある日、勇気を持って上司にそれまで思っていたことを伝えた。
「将来のことを考えて、正社員としてこの仕事をしていきたいんですが、なんとかならないでしょうか?」
「俺もそう思うし、一緒に仕事をしたいから上に相談するよ」
未来がひらけた気がした。2ヶ月ぶりにスーパーに出向き、彼女に話した。
「正社員になって頑張って、そこの会社の社長になっちゃいなさいよ!」
彼女は満面の笑みを浮かべていた。
数週間後、上司は厳しい顔をして私に話してきた。
「残念だけど、上はダメと言ってきた。期待に応えられなくて、すまん」
それまでの自分が急に恥ずかしくなり、仕事が終わってからカフェにいかず、スーパーへ向かった。そして彼女の顔も見ないで、捲したてるように話した。
「先日の話ですけど、無理でした。これから何に希望を持って生きていけばいいんでしょう。お先真っ暗です・・・」
彼女の手が、一瞬止まった。少し手が震えていた。
「おばちゃんにはあなたより若い息子がいるんだけど、会社がつぶれて今は派遣で頑張ってるわ。旦那は天
国にいるから、おばちゃん一生懸命働かないとね!レジの仕事楽しいし!」
心に大きな槍が刺さった。尊敬しているミスぷよぷよに、ひどいことを言ってしまった。正社員が一番で、他はダメという価値観を軽蔑していたのに、私もそれと同じ価値観を振り回していたのだ。耐えられなくなって、急いでスーパーを飛び出した。涙が止まらなかった。それまでに彼女に言われたことが頭を駆け巡った。
「やりたいことをとことん追求して、一度しかない人生を楽しみなさいよ」
「あなたが話す教育は素晴らしいから、それをやりなさいよ」
彼女は、私の本当にやりたいことを見抜いていた。現状に対する不満から余裕を失い、彼女を傷つけた。その後、彼女は次の仕事を得た息子さんと一緒に引っ越した。お別れの挨拶をすることは、叶わなかった。
1年後、仕事を辞して今の仕事を始めた。そして関西学院高等部数理科学部でコーチ活動も行い、様々な賞を受賞することができた。論文が発行され、学会発表もたくさん行った。多くの生徒の笑顔に出会えた。その笑顔と同時に、ミスぷよぷよの笑顔が脳裏を過(よ)ぎる。
今は仕事の傍ら、社会人大学院生として研究活動を行っている。彼女がいなかったら、今の私はない。ミスぷよぷよから、本当に多くのことを学んだ。ミスぷよぷよは、路頭に迷っていた私に、アリアドネの糸を渡してくれていたのだ。ミスぷよぷよ、いや『アリアドネおばちゃん』は、今も心の中で生きている。これからもずっと、永遠に。