【 努力賞 】
【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
道に迷う
愛知県  青 山 昌 弘 40歳

山には、林業や麓の住民が歩くケモノ道がある。私が登りに行く低い山にもたくさんあって、気を緩めると途端に迷ってしまう。ガイド本を見ながら、今日中に帰れるか不安になることもしばしばあった。「あそこの分岐点で間違えた?」と振り返り、下ってきた道をわざわざ登り返す時は心身ともに非常に疲れる。

 そんな緊急時に、なぜか登山と関係のないことを思いついた。「職業選択の道」をさまよったことと、今、道に迷ったことは似ているなと妙に納得した。

 すぐさま我に返り、疲れた体に鞭打って必死に下山道を探したから今も生きている。

 入社してから数年間は辛く学ぶべき点が多いから、仕事は修行に例えられることが多い。本当の修行なら、朝早く起き、座禅を組み、お経を唱えても、まったくお金にならない。損な役回りである。

 鎌倉時代の禅僧、道元によると、辛い修行も腹をくくって取り組むと難行苦行であったことが楽しくなるといっている。仕事もそうであってほしいものだ。

 仕事の場合は会社毎にその修行の内容が違うから、現代人なら他の道に思いを馳せてもおかしくない。違う寺が羨ましい。我慢が足りないだけか、好奇心からか、今まで来た道を戻る転職活動は盛んだ。

 それを繰り返すと現代でも結局、修行をしなければならないことに気づく。しかし、残念ながらその頃には、会社員として失敗の烙印が押されていてもおかしくない。

 ナチスの強制収容所を経験している精神科医ヴィクトール・フランクルは、成功と失敗、充足と絶望という二つの価値観に照らし合わせながら、成功しながら絶望すること、失敗しながら充足することを説明している。失敗したように見える人生でもその苦悩に対して真正面にぶつかり、意味を問い、価値を見出したらならば、心理的には充足するという。

 苦虫を潰したような上司の顔を思い出すと、仕事ができても心の充足感とは無縁であることがわかる。ストレスの多い職場で、退職、病気、亡くなる人々を見聞きした時、会社の存在意義自体を問い正さざるを得なかった。収容所に自ら思いとどまっていてはならない。

 ある時、会社の先輩に「趣味のように仕事をしていないか?」と問われたことがあった。嫌なことでも積極的に取り組めという意味が込められていると思ったので、それを否定し一生懸命努力している旨を伝えた。

 まったく正反対の意味でも同じような言葉を使うことがある。趣味を楽しむように仕事をすると成果が上がるから、なるべく仕事は趣味化したほうがいいという考えだ。

 四書五経のひとつ「礼記」によると、学ぶ段階を「蔵」「修」「息」「游」の語に例えている。教科書や授業などで記録や記憶することを「蔵」、テストで解けるようになることを「修」、学んだことを日常的に使えるようになることを「息」。自然に身をまかせ遊ぶように学びことが何より効果的、そして本当に身につく。これが「游」である。

 仕事も最初は修行のように打ち込まざるを得ない。修行を回避したつもりでも、いずれ右往左往しながら道に迷い苦悩する。しかし、その苦悩に向き合えば、自分が進む道が見えてくる。他人から見たその道は間違っているように思えても、本人にとっては間違っていない。そして当初、戸惑いつつも、仕事に学び、仕事に慣れ、仕事を教え、流れに道を任せると次第に楽しく思えてくるのではないだろうか。

 山道に迷いながらガイド本を取り出して、現在の位置を確認し、苦しい思いをして登り返す時、見つけたのは下山道だけでなく、職業人生として自分の進んできた道であり、これから進む道であった。

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