私は大学を卒業しても正社員としての就職先がなかった。アルバイトとして、卒業後の十月に警備会社に就職して工事現場での交通誘導警備に当たった。この仕事は、夜勤が特に収入がいいので、私は遠方まで車で送ってもらって、道路工事をする全面で誘導灯を振って翌日には寝に帰る、という生活をしていた。
そんなある日のこと、私は警備会社から電話をもらい、いつも通りに事務所に集合して、車で下狛というところの交差点まで送ってもらうと、そこでの誘導を任された。片側交互通行の誘導業務で、互いに無線で合図しながら、工事区間外に車を迂回させるのだ。仕事自体は夜二時には終わった。日雇い派遣で使われているのと同じ形式の、三枚複写になった伝票にサインを貰う。この伝票を事務所に持って行くと給与が貰えるのだった。こんども事務所まで車で送って貰えるものだと思って、私は警備会社のリーダーのところまで行った。
「今日は、大工さんたちの分しか、送りはない」とリーダーは言った。
「じゃあ、どうして帰ればいいんですか」
「歩いて宇治くらいまで行け」
え、それは無理です、こんな夜の夜中に、と言う私に、リーダーは突然怖い顔になって「ゴチャゴチャ言うんやったら、クビにするぞ」と怒鳴った。仕方なく私は夜の道を歩くことにした。
下狛の交差点を、宇治の方角へ向かってとぼとぼと歩いて行く。深夜の立哨勤務で足は疲れ切っていたが、辛いと思っても歩くしかない。「上狛」と表示のあるJRの駅の前を通ったとき、私は時計を見た。午前三時だった。
強盗にでも遭ったらどうしようと思いながら、私は必死で歩き続けた。どうしてこんな事になったのか考えても無駄だった。とにかく家に帰りつくこと、それだけを考えて歩き続けた。夜が明けるころ、私はようやく宇治駅までたどり着いた。11キロ以上はある道のりを、夜間一人で歩き通したのだった。この経験から、私はお金を得る為には人一倍の苦労が必要であることを学んだ。たとい一人で長距離を歩くことになったとしても、収入を得る為にはやり通さねばならない。
現在、就職は売り手市場で、学生さんは大手企業へと応募しておられることと思う。私は氷河期世代で、就職口を探してもなかなか見つからなかった上、就職してもスピードについて行けず厳しい指導を受けたり解雇されたりしてきた。そして、最終的には発達障害と診断され障害者雇用で働いている。現在大手志向で動いている学生さんや、正規雇用で活躍している皆さんには、夜間に送りの車もなく長距離を歩いて戻って、それでも働いている非正規労働者が工事の安全を守り、ひいては社会インフラ構築の下支えをしているという事実を頭の隅に置いて頂きたい。あの日、家に帰りついたとき、両親はびっくりして「そんな会社、やめてしまいなさい」と注意した。「いきなり辞めても、つぎ就職がないから、正社員の仕事を探しながら頑張るよ」と答えた私に、母は「無理しないでね」と言った。無理をするなと言われても、収入を得る道が限られている以上は、夜道を一人で歩いて帰ることもいとわず働かねばならない。私にとって、働くとは苦労に挑戦することだった。苦を乗り越えてはじめて収入が得られたのである。今も同じだ。健常者とほぼ同じ仕事を任され、クリアすると給与が出る。もし難しいと言うと「出来る方法を考えなさい」と言われる。収入を得るには自分の力以上のことをする。そうしなければ労働条件も上がらない。自分の能力以上の問題をこなすことによって能力も上がり、仕事を任されて給与も次第に上がっていくようにはなってきた。
20年前、下狛から宇治まで歩いたことを、私は一生忘れないだろう。そして苦労に挑戦しなければ収入が得られないことも。これからの若い世代と共に、私もより大きな苦難、困難に挑戦し続けようと考えている。