【 佳 作 】
若い人が働くことの意味を考え、職探しに取りくんでいるのをみてある面、羨ましく思える。私は還暦をすぎた63才である。それでいて生きる為に働くのか、働く為に生きるのか明確な考えは持ち合わせていない。
私が若い時は職探しの意識は全く無かった。私は九州の山間部で農家の次男として生まれた。中学校迄は山道で徒歩一時間半。バス便無し。同級生で高校へ進学する者は半数しかいなかった。私はイヤな農良仕事を手つだい、遠い高校へ通学する選択肢は無かった。
ただ高校へは行きたかったので夜間高校への道を選ぶ。都会の会社へ就職したのは高校へ行きたい為の手段であった。従って働くという実感は全く無かった。
中卒後の仕事は施盤工。鉄を削ったり、穴明け加工を一日中する。飛びはねる切粉でケガしたり、機械に巻き込まれそうなった事もある。そして何より時間経過が遅く、こんな仕事を一生出来るのだろうかと不安にかられた。終業時間を待ち、休日を待ちこがれる日々が続く。会社の寮へ住んでいなければ、都会へ出てきていなければ、夜学へ行っていなければ退職していたかも知れない。その時初めて働くことの厳しさを知ったのだ。
ただ私は恵まれていた。夜間高校の保護者が会社の人事課で、学業成績のつつぬけが幸いし、それが認められ、二年目に高学歴者ばかりの設計部へ人事異動となる。
高校は機械科だったので機械や設計に関しては学校でも社会でも学び、仕事も楽しく感じられた。
何度か転職したが全て機械設計関係の仕事で就職に苦労することは無く60才の定年を迎える。
皮肉にも私の場合、職探しに苦労したり、働くことの意味を学ぶのはこの定年後だった。会社からの慰留を断り本来自分のやりたい仕事、生き方を模索する。若い時から登山を趣味としていたので登山ツアーガイドになる為に旅行会社へ押しかけた。即断で断られたが私が過去趣味で出版していた山関連本を数種類置いて帰ると翌日契約の連絡をもらう。
私は客としては登山ツアーに参加した事は無かった。しかし何度かツアーガイドとしてお客さんと同行してサービス業の面白さを実感。今迄のエンジニアとは違う。相手の事を考え、安全を考え山へ登るのはしんどい面もあるが充実していた。登頂の喜びを共有出来るのは素晴らしい。しかし登山には冬期を中心に閉散期がある。その閉散期やツアーの無い日は警備の仕事についた。これもサービス業だ。現場周囲の人々へお願いすることばかりだ。警備の仕事は誰でも出来るようで厳しい側面もある。健康体であること、そしてプライドがあったら続けられない。職業に貴賎無しというが何かしら引けめを私は感じている。社会的評価が低いのか賃金が安い。私は年なので仕方ないが若者はかわいそうだ。
登山ツアーガイドは家族の反対で三年で打ち切り。ここで警備以外に集中出来る仕事を探すべく就活開始。そして私には設計エンジニア以外にスキルが無い事を知らされる。
年齢も関係しているかも知れないがことごとく不合格が続いている。多くの人に会い、社会を知り、己を知り、全てが学びの場なのかも知れない。
私はまだ63才だ。動ける間は仕事をしたい。この気持がある限り“一億総活躍社会”の構成員の資格があるはずだ。前を向いて生きていきたいと思っている。