【 佳  作 】

【 テーマ:多様な働き方への提言】
「働くってなんだろう」から平和を願う
広島県  後 藤 晃 子  53歳

 平成27年度の働くってなんだろうのエッセイ一般の部で佳作の賞を頂いた。そして、三鷹サンパークで開催された「若者を考えるつどい2015」に参加した。参加者全員でいくつかのグループに分かれ、「働くってなんだろう」をテーマにディスカッションをした。私のグループの参加者に高校生の17歳の男子がいて、「自分は働くことに夢をもてない。夢をおいかけて捕まえ仕事をしている人はほんの一部の人達だけで、現実は生きていく為にあきらめて働いている人が大多数だ。今、将来の自分が全く見えない」と発言した。私は、その言葉に深く考えさせられた。

 若者を考えるつどいに参加する前の年の平成26年12月、末期がんで義父が亡くなった。遺品を整理していたら、靖国神社からの封筒が目に留まった。封筒の中には昭和20年8月6日に広島で原爆死した義父の父、「後藤勝之助命」を東京九段の靖国神社本殿において合祀の儀を行うと記載された通知が入っていた。広島で原爆死した義祖父が、何故靖国神社で合祀されたのかまったく見当がつかない。事情を知っている義父は亡くなっているし、義母も夫もその件については何も知らされていなかった。

 若者を考えるつどいに参加するために上京を決めた時、東京に一泊して靖国神社でその件のいきさつを調べようと夫を誘った。平成27年は戦後70年の節目の年であった。私たち夫婦にとって、この年の東京旅行は深い意味を持つ旅になる予感がした。

 若者を考えるつどいの次の日、靖国神社に向かった。本殿に参拝し、社務所で例の通知を見せ詳細を尋ねた。調査依頼書に記入して後日回答を頂くことになった。広島に帰ってしばらくして靖国神社から回答書が届いた。当時、勤務先の広島瓦斯株式会社に出社したまま、遺骨もいまだに戻っていない義祖父は陸軍国民義勇隊として戦死となっていた。国民義勇隊は、昭和20年3月23日に閣議決定され創設された。銃後の多くの人々も敵軍に向かうように求められ、知らぬ間に隊に組み込まれた。義祖父の所属部隊は広島瓦斯株式会社になっていた。  

私の娘が被爆者である義父から聞いた話であるが、原爆投下当時19歳であった義父は、陸軍に徴集される予定であった。義祖父は定年退職の年齢に達していたが、若い人たちが兵隊にとられて人員が足りない為やむを得ず会社勤務をしていたそうだ。原爆投下によって徴兵を免れ命を救われた義父。娘は義父の生前「命を救われたけど、お父さんを殺した原爆を憎む?」と聞いたことがあるそうだ。その時「これも運命よ。あーならんと戦争は終わらんかった。けれど二度と原爆を作ったらいけん。絶対もういけん」と答えたそうだ。娘はその時の義父の顔が一生忘れられないと言う。

 あの日8月6日広島では、生活の為生きていく為に夢をあきらめて働いていた人も、夢を追いかけて捕まえ仕事をしていた人も、子どもも、老人も、日本人も、在留外国人も、沢山の人々が犠牲になった。原爆投下という現実にどれだけの人々が大きくその後の人生を変えられたことだろう。

 私も夢を叶えた仕事に就くことが出来なかった。今は、家計の少しでも足しになればと広島の私立大学でパート勤務をしている。しかし、自分が働いて得た少しばかりの給与で家族と食事をしたり、孫におもちゃを買って喜んでもらったりした時などの、平凡でなんでもないような事にささやかな幸福を感じている。私にとって働くとはそんなささやかな幸福を得るために必要なことなのだ。

 今年の5月27日、オバマ大統領が米国の現職リーダーとして初めて被爆地に訪れ、広島にとっては歴史的な一日となった。短い滞在時間であったが、「ノーモア」と決意を刻んだ世界のリーダーに、名もなき多くの人々のささやかな幸福を奪うであろう核兵器のない世界の実現に全力を尽くしてもらいたいと心から願った。

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