【 佳 作 】
若い人たちが「働きたくない」「職場に行きたくない」と思ってしまう大きな理由の一つに、「職場でいつも怒っている人が怖い」というものがあげられると思う。立場が上の者からの、下の者へのパワハラを撲滅するために私たちはどんな努力が必要になるのか考えてみたい。
ニート等に陥る若者の敵は、いつの時代も結局は「パワハラ」であるように思う。いつも怒ってばかりいる人というのは、一体何に怒っているのだろうか。しかもたちの悪いことに、この社会は「怒った者勝ち」といった風潮さえ認められやしないだろうか。偉そうに怒ってばかりいると、そのうち周囲から「自分の感情をコントロールできない」という、最近流行の、オトナのナントカ障害認定をされることになり兼ねませんよ、といったお節介でも焼きたくなる。
人前で怒れない、俗に言う「言い返せない人」は、はっきり言ってこの社会では働いていきにくい。怒られているだけの日々が続くことによって「うつ病」等を発症し、やがて自己都合退職をせざるを得なくなる場合も少なくはない。怒れない人から見れば、人前で何にも臆することなく怒りを露にできる人というのは、なんと羨ましいことか。
ここでなんとか、解決策の一つも絞り出してみたい。怒る人というのは、まず自分の怒りをぶつける対象としている人物には自ら友好的に近付いて来ようとはしない。ならば怒れない人は、自己都合退職という勇気を奮う前に、最後に一花咲かせる意味をも込めて、怒る人に一歩近付いてみようではないか。怒る人と、とにかく対話してみようではないか。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、怒る人の「本音」に迫ってみようじゃないか。こちらが大人になって、具体的に何に怒っているのかを理解してやる気持ちにでもなってみようじゃないか。ひょっとしたら、怒る人にも職場での仕事そのものの他に、家庭や地域絡みの悩み事等があるのかもしれない。
また、立場が上の者は、下に者から「なぜいつも貴方は怒ってばかりいるのか」と問われたら、そんなときこそ大人になり、素直にその素朴な問いに直球で返してやろうじゃないか。もしかしたら、自身の日頃の苦悩に共感の一つも示めされるかもしれない。
今はもう、あまり「飲みニケーション」自体が流行らなくなったこともあり、就業時間の一部を割いてでも、こうした対話に費やす時間を設けることこそが、意外と重要なことのようにも思える。
そうしてもう一つ理想を言えば、上の者のパワハラに対して、パワハラをされた下の者は最後の力を振り絞り、生意気にも強力に言い返してみることだ。パワハラに「逆上」という名のピッチャー返しをするのだ。どうせその職場を辞めるのだから。
どうだろう。下の者に逆上された上の者は、どんな態度を示すだろう。ここが見ものである。更にパワハラをしようとするなら、そこでは「自分の方が立場が上なのに」という、単なる幻の自己有能感に浸ってさえいるかのような、自身の哀れな精神の保ち方をさらけ出す場面を見せられるのだ。
「昔は自分も我慢したものだ」
昔は本当にそれで良かったのだろうか。その年功序列的にパワハラをされたという遺恨のために、後進たちに対して「職場内世代間虐待の連鎖」を行っているだけではないのか。
このいまいましい虐待の連鎖を断ち切るためには、全体を統括する立場の者が、下々のどんな小さな「訴え」でも吸い上げるという安心できる体制を作り上げることがまず最優先であるようにも思える。
今こそ、この日本の至る所にはびこるパワハラの授受そのものを撲滅することを、本気になって考える時機なのではないだろうか。