【 佳  作 】

【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
父から学んだ仕事の流儀
徳島県  大 塚 達 也  40歳

父から学んだ仕事の流儀」

 年が明けて間もない1月15日、最愛の父が亡くなった。死因は急性大動脈解離で、浴室で倒れていたのを発見してから、僅か一時間余りの出来事だった。71歳、半年以上の月日が流れてしまったが、まだまだ受け止められずにいるのが現状だ。

父の思い出はたくさんあるが、最も印象的なのは働く後ろ姿だ。私の実家は建材業を営んでいて、子どもの頃はダンプカーの助手席に乗って色々な場所に連れて行ってもらった。また、大きなショベルカーを自由自在に操る父を羨望の眼差しで眺めていた。

 当時の私には、助手席に座った際に与えられる役割があった。それは運んだ砂やバラスの数を書き記すことだった。朝から七〜八往復することが当たり前で、マッチ箱の裏に“正”の字で数えるのがやくわりだった。同じことの繰り返しは単調なようだが。正の字が完成に近付くにつれて喜びがあった。眠くなって数を間違えたこともあったが、父の傍にいられることが幸せだった。

 子どもを叱る時も決して感情的にならず、毎回ちゃんと理由を説明してから叱ってくれる父だった。周囲には甘く映っていたのかも知れないが、それでも父の流儀が変わることはなかった。

 父に教わったことはたくさんあるが、最も印象に残っているのは《準備力》の大切さだ。

「仕事の成否は準備の段階で九割決まる」が口癖で、大きな仕事になればなるほど準備と根回しに時間をかける人だった。

 今から15年前になるが、私は血液のがん悪性リンパ腫で、一年近い闘病を余儀なくされた。ステージWの末期で、仕事も休職しなくてはならず、自暴自棄に陥っていた。外出時のマスク着用を止め、感染防止のうがいや手洗いを怠るようになった。リスクは分かっていたが、不安と恐怖で全てのことから逃げ出そうとしていた。

 そんな私に、父がベッドの傍らで諭すように語ってくれた言葉があった。「先生や看護師さん、家族、友達、皆がお前を治そうとしてくれている。特に主治医の後藤先生は、若いお前を絶対に社会復帰させようと懸命だ。プロの仕事をしてくれているのだから、お前は万全の体調と心で、抗がん剤治療に対峙する責任がある」

 自らの考えの甘さに気付き、父が常日頃から言っていた準備の大切さを再認識させられた。「分かった・・・」そう答えただけで、後は涙で言葉にならなかった。この人には一生勝てないと感じた瞬間だった。

 実家の車庫には、父が愛したダンプカーとショベルカーが残されている。運転席に乗り込むと、父のにおいや体温を感じて、忸怩たる感情が込み上げてくる。私のダンプの運転やショベルカーの操作は未熟で、天国の父から見れば苦笑いの連続だろう。

 これから先、もっともっと父が居なくなったことを実感する機会があると思う。辛く険しい道は覚悟の上で、学んだことを財産に一歩ずつ歩んで行きたいと思う。

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