【 入 選 】
もう三十年も昔の話になる。東京本社から大阪支社へ転勤してきた時のこと。当時は。今ほど関西弁と標準語の交流はなく、やはりそこには大きな壁が存在していた。関西弁が喋れない私は本当に苦労をした。いや、させられた。営業に出ても、その東京弁が気持ち悪いねん・・と、露骨に厭味を言われて相手にされず、追い返されたことは十本の指では足りない数に上る。その上、関西弁を使えんような者に居場所はないと言わんばかりに、同業他社の連中にも村八分にされ僅かな情報でさえも私には聞こえないよう、ガッチリとスクラムを組まれて弾き出されていた。
そんな日々に耐えかねて、何度も本社に戻してもらえるよう直訴したが・・その頃の支社は開設二年目で、なんとか踏ん張って新天地を開拓しろの一点張り。私の希望が叶えられる余地はなかった。このままでは鬱になってしまうと迷った結果。会社を辞めて東京へ帰ろうと決心した。転勤からまだ半年目のことだった。が、その前にどうしても許せない者がいる。ライバル社のFと云う、私を異星人かの如く忌み嫌い彼が先導して村八分が始まったと言っても過言ではない。悪魔のような身長の男だった。こいつだけは許せない。辞める前に、帰る前に、喧嘩の一つでも売らないと、私はただの負け犬になってしまう。それだけはどうしてもプライドが許さないと・・・今でも忘れない。梅田のかっぱ横丁のガード下。私はFを呼び出し、べらんめえ口調で罵れるだけ暴言を吐いた。ところが反撃してくると思いきや。Fは黙って、ただ黙って聞くだけで・・・そして最後に一言。その言葉が私の人生を一変させてしまった。「なんや、本音が出せるやないか。そんでええんや。ここは大阪や。本音で生きてる街や。言葉やない。東京流は通用せん言うことや。あんたはそれがわかってなかったんや。けどもう大丈夫やな。それだけの根性もっとったら、明日から商売できまっせ」意味がわからなかった。でも翌日から私をとりまく環境がガラリと変わってしまった。「お前、Fと喧嘩したんやってな。なかなか根性あるってFが褒めとったで」行く先々で同様のことを言われ。今まで一分と会話が続かなかった営業先で、話がどんどん膨らんでいって・・・次第にそれが仕事へとつながって・・・結局私は辞めるタイミングを逸し。それからはFが一番の親友になった。大阪弁を習い、下手な口調を笑われながら、とうとう退社するまで二十五年。大阪に居付いてしまった。「郷に入れば郷に従え」と、古人の言葉にある。私はFにそのことをここ大阪で教えてもらった。
今、私の家庭では関西弁が溢れている。家内が地元出身だから仕方ない。それでも「お父さんの発音、おかしい」などと末娘に指摘され笑われている。でも、この下手な関西弁が家庭を支えてきたんだと、妙な誇りだけはなくしていない。
まもなく還暦を迎える。だから学んだことは多い。その中で一番の収穫は、あの日、かっぱ横丁で教えてもらった、
本音が出せる人間であること。
もちろん、立て前も時には必要だろう・・でも、その裏で必ず本音が立っていなきゃいけないこと。でなければ全てが嘘で、薄っぺらい人間になってしまうんだと。私は今、社会人となった二人の息子に伝えている。