公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞

【 テーマ:多様な働き方への提言
最期の言葉
〜ライフスタイルに応じた働き方があっていい〜
長崎県 小 川 邦 夫 54歳

それが本だったのかさえ記憶にないが、死の床にあった老人とその息子のシーンが頭から離れない。病院のある一室。死を悟った老人が枕元に立っている息子に声をかける。「どうかお願いだ。お前を抱きしめさせてくれ。」息子といっても50過ぎ。髭面の男同士が抱き合う姿など見られたものではない。戸惑う息子に老人はつづける。「若いころの俺は会社人間でお前のことを全く構ってやれなかった。今となってはそれだけが心残りだ。」そのやりとりが妙に切実で、結婚を意識すらしていなかった私の心を強くとらえた。

「孝行したいときに親はなし」とよく言われるが、「抱き上げたいときに子はなし」もまた真といえないか。いや、むしろこのご時世ではこちらの方がリアリティがある。家庭をもち子ができるころ、ようやく責任ある仕事、責任あるポジションが回ってくる。周囲から認められればやりがいも出る。残業、休日出勤も厭わず、結果、家族のことは妻任せ。熱を出したわが子を構うこともできない、学校でのトラブルに際して心配することも学校側と話し合うこともできない。

そして定年。会社に必要とされる人間だと思っていたが、自分などいなくても仕事が回っていく現実を思い知らされる。そして、家庭こそが自分の居場所と思い定めるが、ときすでに遅し。妻は友人同士で出かけていつも家にいない。子たちは学校を卒業して独立、すでに家庭を築いていたりする。「あれほど必要とされていたとき俺は何をやっていたんだ。」後悔しても時間は戻らない。死に際しての老人の言葉には、そんな切ない思いが込められていたのだろう。

 数年後に私は結婚した。翌年には子にも恵まれた。「まさか自分が父親になれるとは」。父親なんてなろうと思ってなれるものではない。せっかく得た家族を大切にしたい。この人生での役割をしっかりと果たしたいと思った。しかし、例にもれず、仕事が忙しくなった。やりがいはある。周囲からの評価もうれしい。しかし、おむつを替えるのも洗うのも妻。熱を出して病院に連れていくのも妻。抱っこをせがむわが子と過ごす時間を持てないもどかしさ。そんな思いを抱きはじめたとき、あの老人の言葉が蘇った。

脱サラはどうか。しかも、現金収入が少なくて済む田舎暮らしならもっといい。が、県庁職員というなまじ安定した職が周囲の反対、本人の逡巡を生み出した。定年まで先延ばしにしても…、そんな思いが頭をよぎったときまたもあの老人の言葉が蘇り、私の決断を後押しした。

長崎県の五島列島に移住を決めた。身寄りはなかった。収入の手段として塩づくりを選んだ。ちょうど専売法が廃止され、自由に塩づくりができるようになった時期でしばらくはこれで飯がくえるだろう、その程度のいい加減さで決めた仕事だった。移住した年に長女が、翌々年に次男が生まれた。

収入は16年たった今でも当時の3分の1にも満たないが、反面、多くの時間を得ることができた。夏は毎日のように目の前の海で泳いだ。子が病気のときは夫婦で看病した。学校のトラブルも夫婦で考え、学校への対応は男の私が果たした。子の進路も親子で十分話あうことができた。辞めてよかった。心からそう思う。今となって思えば、あのときの老人の姿は、もう一つの人生を歩んだときの私の姿ではなかったか。

 50歳を過ぎた。あの老人と同じように死の床にふすのもそう遠くはない。枕元に揃った子たちに、そのときの私はどんな言葉をかけるだろう。できることなら「ありがとう」一言で済ませられる人生にしたいものだ。

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