【 努力賞 】
【テーマ:私が実現したい仕事の夢】
ボランティアという働き方 ―高齢者施設にて―
埼玉県 明智雄大 52歳

週に1回、高齢者施設でボランティアをしている。俗に言われる「傾聴ボランティア」とは異なり、私の場合は「何でも屋」的なボランティアである。話を聴いたりもするが、芸術療法のグループワークを行ったり、読み聞かせをしたり、パペットを用いて声真似でお芝居を披露したりもする。ちなみに、私が得意とする声真似は、ミッキーマウスのパペットを使ってのミッキーの声真似である――おそらく、入所している高齢者の方には、それが似ているか否かはわからないと思うのが残念だが……。

高齢者施設でボランティアをしようと思い立ったきっかけは、進みゆく高齢化社会や認知症を患う人の増加という現状を踏まえ、将来的に、高齢者支援のために自分の専門技術を生かそうと考えたからだ。私が祖母っ子だったことも理由の一つである。

私が担当しているフロアには重度の認知症を患っている高齢者の方がいる。1週間逢わないでいると、私のことを忘れられる。あっけらかんとしたものである。
「あんた、誰?」と、何度も顔を合わせている人から怒ったように聞かれたりする。
「ああ、○○さん……」と、別の人と勘違いされたりする。

あるいは、前回は機嫌が良かったのに、1週間経ってから行くと、人が変わったように不機嫌になって、意味なく怒鳴られたりする。理不尽だが、これが認知症という病理なのだろうと思って、臨機応変にどう対処したらいいかを考える。

私の仕事である心理臨床の分野では、以前には「高齢者支援」の研修会が毎年開催されていたが、今はそれがない。なぜ、高齢者支援が取り扱われなくなったかといえば、高齢者施設において私たち専門技術者が働く余地がないからであろう。医療機関などでは認知症の鑑別診断のための心理テストや、認知症のリハビリに携わっている人がいないでもないが、ごく少数派である。これほど高齢者のことや認知症のことが社会問題となっているにも関わらず、この分野の研究論文はほとんど見当たらない。今はもっぱら子どもの臨床が中心なのである。

というわけで、飛び込んでみたわけである。飛び込んだはいいが、やはり関わりづらさを感じる。観念的には高齢者支援に関する知識をたくさん持ち合わせていても、現場ではそれが役に立たない。通用しないのだ。無力感にとらわれる。

まだこの職業に就く前、都内の特別老人ホームでボランティアをしたことがある。20代後半の頃、それまで勤めていた職場を辞めて自由な時間があったときのことだ。ボランティア初日、施設内を案内してくれたベテランの女性指導員の方が、案内の最後に、私を地下にある小部屋に連れて行った。何もないガランとした白いドーム型の小部屋だった。
「ここは何の部屋なのか、わかりますか?」と、その人は静かな声で私に尋ねた。
「いいえ、わかりません」と私が答えると、その人は「ここは霊安室なのですよ。この施設に入居している人たちは、ここで人生を終えるのです。だから、私たちは入居している人たちが、残りの人生を楽しく過ごせるように尽くさなければならないのです」と言った。

そのときの言葉が、いつも私の脳裏をよぎる。あの冷たく空虚な白いドーム型の小部屋の空気と共に……。

私は、目の前の相手に快感情を持ってもらうことを念頭に置いて接している。自分というちっぽけな人間に何ができるか――これは私の挑戦である。正解のない問題に対する自分なりの精一杯のアプローチである。ボランティアという働き方を通して、私はそれを勉強させていただいている。
「こんにちは!」と、私は人生の先輩たちに明るく声をかける。

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