【 佳 作 】

【テーマ:仕事・職場・転職から学んだこと】
人生という小説の1ページ
埼玉県 雲流悠人 37歳

私は建築関係の会社に勤めている。そのなかでマンションのリフォームを請け負うこともある。特に人気があるのが窓周りのリフォームで防音・断熱効果のある二重窓の取付工事である。一窓あたり工事時間も約一時間と簡単で効果が高いため、問い合わせが多い。

この日も、二重窓を防音のためにつけて欲しいという依頼で私は依頼のマンションに向かった。比較的高級なタイプの10階建のマンションの上層階だった。訪問時間は夕方。私はエレベーターで目的の階に着くと、共用廊下から目の前にひろがる景色に目を見張った。とても綺麗な夕焼けが広がっていた。近くにはこんもりとした森があり、夕日をあびて赤く染まり、風を受けてさわさわと木々が揺れていた。私はいつもマンションの共用廊下から見る景色が大好きだった。空をより近くに感じられ、自分のちっぽけな仕事の悩みを忘れることが出来たからである。私は大好きな曲の1フレーズを呟いた。「このままでいいかわからないまま、過ぎてゆく日々にすこしだけ不安になってくよ」この仕事についてもう10年がたっていた。日々の仕事に忙殺される日々。自分自身は日々成長しているつもりだが、何のために仕事をし、どんな目的を持って仕事にこれからも取り組んでいくのか。何年かに一度、私はしばし立ち止まり深く考えていた。しかし明確な答えは出ないままだった。いつしかまた日々の業務に追われてしまう。ぼんやりとそんなことを考えながら景色を楽しんだ後、依頼者のもとに向かった。出てきたのは、上品な感じの奥様だった。奥にアップライトピアノが見えた。

ピアノはお子様の練習用のものだった。話を伺うと、本格的にピアノを練習させるのに音が漏れてしまうため、近隣に配慮して防音工事を行うという内容だった。取付する窓の採寸をし、概算の金額を提示した。二つ返事で了解を頂き、すぐに工事の段取りをすることになった。

施工当日、部屋の前に幼い女の子が見えた。おそらく依頼者の娘さんだろう。不安そうに部屋をのぞきこんでいる。「ねぇ、何をしてるの?」そう少女に聞かれた私は工事内容を説明した。とたんに少女の顔がぱっと明るくなった。おそらく近所から苦情を言われ、ピアノを弾くのを親に止められていたに違いない。今日からまたピアノを弾くことが出来ることがわかった少女はよっぽど嬉しかったのか、小躍りして子供らしいはしゃぎ声をあげた。

後日、私は工事代金の集金と二重窓の調整があり、再度依頼者のもとを訪れていた。奥の部屋からはリズミカルな演奏がかすかに聞えた。トルコ行進曲だろうか。ずっと遠くで誰かがひそひそ話をしているかのような音量。防音効果はばっちりだった。これで近所迷惑にはなるまい。

それから2年ぐらいたっただろうか、私はこのマンションの他の住民からまた二重窓の依頼を頂いた。打ち合わせ時間ぎりぎりだったため、いそいでエントランスに入った私であったが、掲示板の前で立ち止まらずにはいられなかった。見覚えのある少女が映っていたからだ。あの時の少女だった。「市内ピアノコンクール優勝者」の下にあの可愛らしい笑顔が映っていた。私はその時、何か目から鱗がおちる感覚に陥った。私は知らず知らずのうちに仕事を通して、良くも悪くも他人の人生に大きな影響をあたえていることを猛烈に痛感した。そして私も、相手も同じ瞬間を共有して生きている。同じ瞬間はもう二度と来ない。そう考えたとき迷いが消えた。これからも仕事を通じて、人の役に立ち、社会に貢献し、人生という小説の1ページをになう存在でありたいと思う。

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