【 努力賞 】
【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
喜びと恐怖のはざまで
群馬県 松草 34歳

私は今、中学生向けの塾の講師をしている。通勤ラッシュと無縁の昼ごろに出社、日付が変わった頃に帰社する毎日だ。

大学を卒業するとき、絶対にやりたいという仕事がなかった。小売業をしておけば「年をとっても、スーパーでアルバイトくらいはできるだろう」という考えから、小売業に就職し、2年しないうちに体を壊し、退職した。回復をした後に、どの仕事に就職したいか決まらなかった。だから、「どんな仕事が社会にあるのか探すために」人材派遣会社の営業をした。後に異動になり、経理兼秘書をすることになった。

秘書として、社会的に影響力がある人のスケジュール管理をし、その人のための雑用をした。社会に対して、自分より圧倒的に大きな力を持つ人を働きやすくすることで、社会に恩返しができる、自分にとって社会貢献できる最良の方法だと、偶然なったその仕事に満足していた。満足していたはずだった。どんなに経営手腕の優れた社長であっても、やはり人。悪い部分も見えてきて、本当にこのままで良いだろうかと、いつの間にか考え始めていた。そして退職した。

人材派遣会社の経理兼秘書を退職した理由は、最大効率の社会貢献を求めた結果だった。いろいろな会合に参加して、会社以外の組織でも上のほうに名前を連ねる地元の名士にも限界がある。その限界値を超えていく可能性のある存在は何か。未来を作る人間だった。これからの未来を作っていく「子ども」に尽くそうと思えた。

この思いは、社長自体を超えていく存在になれる子どもに接することができるのか、そもそも超えるかどうかわからないという点で不確定の要素がたくさんあったが、当時の社会貢献の限界値を超える方法は、自分のスキルなどを照らし合わせてみると、子どもに接する「塾講師」しか仕事を見つけることができなかった。7年経った今でもあのときの選択が正しかったかどうかわからない。それでも中学1年から志望高校進学まで受け持った生徒が高校を卒業して、超有名大学へ進学することになったという報告を受けると、前の社長を越せるかもしれない人材にかかわり、プラスになる何かをしているという気持ちになる。もちろん学歴が全てだという意味ではないが、学歴がなければできない仕事があり、未来の可能性を広く維持する意味で有名大学には可能性が比較的あると思う。

子ども達に勉強へのかかわり方、問題への接し方、考え方を伝え、その成果の一環として「点数」をあげていく。超短期的に見れば、テストのためだけのサービスのようだが、1年間の中で計画の立て方をはじめとして苦手科目へのアプローチなど、死ぬまでかかわることになる「学び」に必要なことを体得してもらう大切な仕事だと思っている。

ひょっとしたら教え方が悪いかもしれない。「あの先生、わかりにくい」そういう生徒がいるかもしれない。正直な話、全員から支持されているかといえば、そんな自信はない。それでも私には自分を守り、育んでくれた社会に恩返しするもっとも良い方法が「塾講師」以外に見つからなかった。自分の仕事が世の中に必要で、重要な仕事だと思えば思うほどに、失敗した場合の恐さを感じる。将来の日本を支えるであろう日本の宝に接する場所には、もしかしたら理解を妨げてしまうかもしれないという恐怖と「わかった!」と満面の笑顔を見られる喜びが、存在する。

真剣に仕事に接していれば、喜びも恐怖も必ずあるだろう。怖いといって何もしなければ喜びは得られないし、たとえ、うまくいったからといって次回も同じようなことをしているだけでは失敗することもある。日々こちら側も更新しなければ、最適な授業はできない。恐怖と喜びのはざまで創意工夫して「わかった!」を作ることが最高に楽しくてやめられない。

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