1.そもそも働くことは、この社会で生きていくためには避けられないものです。だからこそ、働くことが可能な人は、「働くとは」ということにつき考えなければならないのです。私は大学生のとき、この「考えなければならない」ということを自分に意識させるため、避けられない理由をまず整理しました。
第一に、現状の社会を維持し発展させていくためには、その構成員がなんらかの役割を担う必要がある、という理由があります。もっとも、この理由は、自分が社会の構成員であるという意識がない人にとっては、自分のものとして受け取れる理由ではないかもしれません。私も当初はこの理由をそこまでしっくりくるものとは受け取れていませんでした。
二つ目には、何かを買ったりサービスを受けたりするためには対価としてお金を払う必要があり、仕事はそのお金を稼ぐ手段である、という素朴かつ決定的な理由があります。少なくとも、誰かが個人的な犠牲を払わない限りこの理由から逃れることはできません。私は、まずこのことを意識し、働くことについて考えるようになりました。
注意すべきだと考えたことは、避けられないからといって、仕事を「やむを得ずに嫌々ながら行うもの」と考えてしまうべきではないということです。むしろ、避けられないからこそ私は、「働く喜びを見出せる仕事をしたい」という曖昧ながら本質的な欲求を意識することになり、大学での生活でこれらを少しずつ見出していくことになりました。
2.まず、「社会におけるなんらかの役割を担う」というどのような仕事も備えている要素に着目する自分に気が付きました。
仕事が仕事として現に存在しているのは、仕事の対価としてお金を支払う誰かがいるということにほかなりません。「自分が行う何かを求める人がいて、その相手の需要を満たすことができる」という仕事が必ず備えている性質の素晴らしさです。
家庭教師のバイトで、目の前の相手や親御さんが結果を受けて感謝を示してくれる姿をみるとき、自分でも驚くほど嬉しくなりました。当初は自分の得意分野をバイトにするという意識しかありませんでしたが、やっていくうちに、働くということ自体が備える喜び、需要を満たすという喜びに気が付きました。
この経験を経たことで、私は積極的に仕事について考えるようになれました。
3.次に、仕事が持つ一般的な喜びではなく、私の個性からくる個人的な喜びを見出せる仕事を探すことを考え始めました。これを見つけるためには、自分の価値観を把握することと、社会にどのような仕事があるかを把握することが必要です。
まず、私は、大学でのサークル活動やバイトにおいて「裁量が広い役割を担うときにやりがいを感じる」という自己の価値観に気が付きました。自分の工夫が相手の喜びを増加させる、という仕組みに喜びを見出すことに気が付き、自分の価値観を把握することができました。
これを踏まえ、次に、大学3年生頃には社会にどのような仕事があるかを探し始めました。しかし、様々な分野、職種を見渡しても、仕事の裁量の広さというものは当然分かりませんでした。そこで、個別の企業やその募集職種について精査していくことになりました。そうしていくと、確かに裁量が広そうな個別具体的職種は把握できましたが、確実なものではないと感じました。そして私がなした決断は「やってみなければわからない」という消極的なものでした。
4.私は現在、いったん就職した会社を辞め、資格試験受験の前提となる大学院を経て、資格試験に合格して研修をしています。やがて自営業として広い裁量を持つ仕事をしていくことに期待を抱きながらも、当然、不安もあります。しかし、熟慮した信念や自分の価値観に確信を持っているので後悔はありません。自分の人生がやっと定まったことについて安堵しています。自己の譲れない軸を認識することが重要なのではないかと感じています。