一昨年、私は4年近く務めたJA全農グループを退職しました。営農指導員として、農協組織の中で必死にもがきながら、「自分が農家のためにできることは何か?」「日本農業の衰退を防ぐため、何をするべきか」を考える日々でした。自分が導き出した答えは「自分自身が農家になり、試行錯誤を重ねながら日本農業再生のモデルを構築できないか」ということ。周囲からは「全農のような巨大組織を自主退職するなんてもったいない。年功序列・終身雇用で一生安泰なのに、自分からドロップアウトして厳しい環境に身を置くなんて、頭がおかしいんじゃないか??」「農家になるということは、貧乏になることを覚悟しておけ」と猛反対を受けました。しかし、一度の人生。自分に納得のいく人生を歩み、誰かのために働く生き方がしたいとの決意を固めました。退職後、広島県大崎上島や和歌山県新宮市の篤農家のもとで住み込みでの農業研修を受けながら、技術の習得に励みました。
そして、昨年10月。和歌山県橋本市の耕作放棄地60アールを借り受け、果樹栽培(富有柿)40アール、畑20アールの経営規模で農業経営をスタートしました。私が農業委員会を通じて借り受けた果樹園は、ツタがはびこる耕作放棄地。すでに農業を放棄されてから5年近くが経過していました。「耕作放棄地はたくさんあるが、ヨソモンの若者に貸してくれるひともいない」と言われ、ようやく紹介された農地でした。水はけの悪い土地で宿根性の雑草が生い茂り、まずは草刈りや溝堀からスタートしなければいけないため、連日のように農園にはびこるツタを除去する作業をしていて、さすがにノイローゼ気味になりました。「思っていた農業と違う」との戸惑いも感じました。草刈機で作業をしようにも、ツタがからまってしまい機械が停止してしまったり、手入れのされていない木は伸び放題になっており、剪定作業も思うように進みません。初年度はほぼ収穫を得ることができず、アルバイトをしながら冬を越しました。
春。柿の新芽が芽吹き、新しい葉が出てきた時の感動は、言葉には言い表せないものでした。少しずつ、命が芽吹いていくのを肌で感じました。農業経営費の資金調達も大きな課題でしたが、クラウドファンディングという手法を導入し、我が農園の柿を食べたい人をネット上で公募し、1口5千円を寄付してもらうかわりに秋に5キロの柿をお送りするとの約束で約100名から寄付を受け、資金調達を行うことができました。少しずつですが、思い描いていた農業の姿が現実化してきています。
日本農業は後継者不足と高齢化、所得の低迷により若手農業者は思うほど育ってきていません。新規就農者は、3年で3割が離農すると言われています。耕作放棄地についても、これから中山間地を中心に爆発的に増え続けることでしょう。私自身、就農2年目の年収は100万円台。冬期のアルバイト給料がなければ生活のめどはたちません。夢はでっかく、根は深く。3年後には売上1千万円、従業員五名を目標に、法人化を目指しています。私が耕作放棄地再生のモデルを提示し、就農を希望する若者達を研修生として受け入れ、共に夢にむかって努力することで、日本農業再生の起爆剤にできないかと奮闘しています。前途はいばらの道ですが、萎縮することなく、夢にむかって邁進していきます。