まさか自分が、非正規社員になるとは思ってもいなかった。いままで当然のように貰っていた賞与や手当もなくなり、収入は半分以下になった。そしてようやく決まった今の職場も、来年3月には、契約が終わることが決まっている。神戸のまん中から、縁もゆかりもない地方へ引っ越してきて2か月になるが、私は、そんな近況に満足している。
一緒に入社した同期3人のうち2人が、2年の間に職場を去った。自分の存在が認められないと言われたとき、そこに居る理由がなくなった。職場を離れてからはもっと早くに辞めていればと思うほど、私の気持ちは軽くなったが、それと引き換えに漠然とした不安が全身にのしかかってくる。保険や税金、退職後の手続きの度に、嫌で辞めた会社に守られてきたのかを痛感し、ハローワークでは、不安を抱える人々がこれだけ多くいる社会を知った。次の仕事が決まったのは、退職後から1か月が過ぎていたが、その間は、自分が社会からはみでた存在のように思えた。
新しい職場では、朝刊を取りに行くことからはじまり、電話対応や机拭きといった、前の職場ではアルバイトさんがしてくれていた仕事も多い。実際に自分でやってみると、これまでこうした仕事を軽視していた自分が恥ずかしくなった。電話をつないでくれたあのとき、何故、「ありがとう」と言えなかったのだろうかと、今になって後悔している。
転職、引っ越しを機に仕方なくはじめた料理や掃除、さらには自治会への加入や地域清掃など、日々、わからないことだらけで自分が情けなくなることも多いが、会社帰りにスーパーで買い物をし、ネギを提げなら帰るのも、案外おもしろい。残業してから夜遅くに外で食事を済ませ、寝に帰るだけの生活のなかで、いかに日々の生活のなかの喜びや、生きていくうえで当然知っておくべき知識や、技術を学ぶ機会を失っていたのだろうかと、考えさせられる。そして、料理にしろ、ごみの出し方にしろ、できなかったことができるようになったとき、私は、うれしい。
こうした生活を送りながら思うことは、職業生活の質の向上のためには、実は、自己の生活の充実が、役に立つのではないかということである。実際に家事一つしようとしても、様々な問題に直面するが、それを解決するものやサービスを提供しているのは、ほとんどが企業であり、職場である。そう考えると、日常生活の欲求や歓びを無視して、仕事のやりがいや、職場の活性化は考えられないし、逆も同じであろう。
つまり、私たちは、職業生活と自己の生活をどちらかを選択するという訳でなく、互いに足りないものを補い合うことで更に社会が発展する展望を描いていくべきなのではないだろうか。これには、個人の生活環境という枠をこえて、物質の流通や、人的交流もさらに活性化していく必要もあるだろう。とくに人的交流についての一つの物質的な見方は、出会いから婚姻、出産と言った人間関係でもあり、これが生まれてこそ人の営みが成立し、社会が継続する。昨今、全国各地で行政による婚活事業が盛んに行われているが、単に個人を結びつけるだけに終わるのではなく、職場と生活の婚活も並行して推し進められることで、社会全体のなかで調和されることを期待したい。