「上野さん、あなたの明日はひとつじゃないんですよ」
心療内科の先生は泣きじゃくる私にそう言って優しく手を伸べ、涙と鼻水でグシャグシャのティッシュを握りしめる私の手を厭うことなく両手で包んで静かににっこりと笑った。
「いらっしゃいませ、どちらかお探しでいらっしゃいますか?」
洗練された流行りのお化粧と、誰もが憧れるきりっとした制服に身を包んだ先輩達の明るい声が響く。
私は二年前までショッピングモールの案内業務をしていた。百店舗以上あるモールの中のお店の案内や近隣の観光地の案内をする仕事である。
私は入社してすぐ、化粧が地味ね、とあるベテランの先輩に叱られた。これではいけないとすぐに百貨店に走り、一番人気だという口紅とアイシャドーを買った。きっと先輩は、変わった私を褒めてくれるだろう、そんな期待を胸に、次の日、私は意気揚々と出社した。
「先輩、お化粧を変えてみました」
「なぁにそれ、随分古いお化粧ねぇ。お母さんのお下がり?」
その言葉は、私にはあまりに悲しかった。それでもどうにか先輩に認めてもらおうともがき、あがいたがそれが実ることはなかった。
私はこの仕事に固執していた。ここを辞めてしまったら二度と働くことはできないのではないか、そんな妄想に近い執着を抱く程に切羽詰まっていた。既に自分の心の限界が来ている事に自分でも気が付かなかったのだ。
ある日の出勤途中である。地下鉄の乗り継ぎの駅で、私は自分が今どこにいるのか分からなくなった。ここは一体どこなのか。私はどこへ行くのか。自分でも信じられない事ではあるが何も分からなくなったのである。
次の日、私は仕事を休んで心療内科に行った。そこで先生にかけてもらった言葉は、私の妄念を打ち砕いた。
「あなたの明日はひとつじゃない。今のお仕事じゃなくたって、あなたの良さを引き出せる仕事がたくさんあるはずです」
モールの案内業務を辞めた今、私はカルチャースクールのアシスタントをしている。一年の療養の中、手と頭を動かす趣味をするのはどうかな、という先生の言葉で始めた健康麻雀のアシスタントだ。元来の凝り性から、趣味では飽き足らず今年の春には健康麻雀の講師の資格も取って、アシスタントと並行して生徒の前で講義もしている。
健康麻雀は生涯学習の一環として「お金を賭けない、お酒を飲まない、煙草を吸わない」の三つの決まりを守って行うものである。
高齢者の認知症予防と「生きがいづくり、仲間づくり、健康づくり」をモットーに福祉事業として健康麻雀教室を開いている自治体も今では多くある。
今、私は充実している。
もちろん案内業務は誰かの役に立つ仕事である。だが健康麻雀教室のアシスタントもまた、誰かの役に立てる、誇りを持てる仕事だ。
そしてあの時先生は、こう続けた。
「あなたの明日はひとつじゃない。でも、その新しい明日を掴むのは自分自身ですよ」
今、私はもうひとつの明日に向かって走り出したところである。