いちねんせいになったら
いちねんせいになったら
ともだちひゃくにんできるかな
言わずと知れた、まど・みちおの詩である。
この歌を初めて聴いたのは、いつであったか詳しく思い出せないが、幼稚園児であったのは確かだと思う。私はてっきり、富士山の上でおにぎりを食べることが、一年生のあるべき姿なのだと夢に描いていた。だから、小学校に入学して、学年の友だちが100人に満たないことを知った時のショックは、はっきり憶えているのだ。現実とのギャップを学んだ、最初の出来事であったのかもしれない。
それから、この歌を耳にしても、さほど、よい感情は湧かなかった。しかし、12年経ってみて、自身の希望と、再び交わることがあった。中国への留学が決まったのである。
その大学には、世界中から留学生が集まり、「小さな国連」とも愛称されている。キャンパスの公用語は、中国語と英語で、学生寮では、7ヶ国の友人と生活を共にした。当初、願った通り、100ヶ国の友だちができた。
とは言っても、そうなるように、わざわざ努力したわけではなかった。異文化も、慣れれば、日本と変らない日常であり、一体、誰がどこの国籍なのかなど意識にない。自分が日本人であることも忘れてしまっていた。それを強く自覚したのが「3.11」だった。
東京にいる家族や友人に被害はなかった。それでも、日本全体に襲いかかった悲惨さは、寮の国際中継で目の当たりにしていたのだ。そんな私でさえ、眠れない夜が何日も続いた。
励ましてくれたのは、世界中の友だった。家族の気遣いや、困難に負けない日本人への尊敬、日本が大好きだという思いを何人もの友だちが、自ずと語ってくれた。一個の私という日本に、友だちという世界が溢れてきた。
それをそのまま形にして、日本に届けようと取り組んだのが、メッセージ・ビデオの制作だった。それぞれの言語で発した言葉は、簡単に訳すことができない心を持っていた。自分も祖国エジプトのために行動を起こすと言ってくれた学友がいた。たとえ僅かでも、確かな一つの絆になりえたのだと感じられた。
それから1年後、悲しい知らせが届いた。そのビデオで、ロシアを代表してくれた友人のアンナが自殺したのだ。学業がうまく進まなかったことに、人間関係の問題が重なって、孤立していたそうだ。親しい友だちのことも突き放し、とにかく、負の連鎖が起きていた。
彼女は、日本文化が本当に好きだと話してくれた。日本人がホームステイに来る機会が何度もあったようで、言葉もいくつか知っていた。何か話してほしいと催促すると、突然、「乾杯しましょう!」と言われたときは、笑いが止まらなかった。もう会えないと気付くと、何も出てこない。
ロシアから、お母さんが一人で、アンナの荷物を片付けに来たと聞いた。もしかしたら、彼女が最期に言いたかったことは、「お母さん、ありがとう」だったのかもしれないと、友と話していた。
その一言には、国籍、人種、民族、さらに宗教、イデオロギー、文化の違いを超えた、人間としての本来の意識に立ち帰らせてくれる力が、宿っていると感じてならなかった。
もう誰も、孤独になってはいけない。
もう誰も、孤独にさせてはいけない。
たった一言の「お母さん、ありがとう」を世界151ヶ国・地域の学友と共に記録する活動で、私は留学を終えた。友だちとの最高の思い出を、大学に留めることができたのだ。
もうじき、私は社会人一年生になる。その志とは、冒頭の詩の最後に記されているままなのだ。日本、世界、地域の友だちと一緒に。
ひゃくにんでわらいたい
せかいじゅうをふるわせて
わっははわっははわっはっは