「では、最後の質問です。人はなぜ働くと思いますか?」
就職活動中、とある会社の集団面接で、人事の方に問われた。私の他に三名の就活生がいて、彼らの回答は、育ててくれた社会に恩返しをするだとか、恵まれない子供達を助けるだとか、表面上は異なるが、要するに「社会貢献のため」というものだった。私は彼らの回答に一抹の違和感を覚えながらも、自分にとって労働とは何なのだろうと、ぼんやりと考えていた。私達人間は生活していく上で、必ず他人の助けを得ている。農家がなければ野菜は食べられないし、大工がいなければ住む家も建てられない。そして、恩恵を授かるだけの存在では社会の構成員として不必要で排除されるため、自らも何かを提供する存在とならざるを得ない。そういった意味で、働くという事は本質的には義務を全うする事であると私は考えており、ポジティブな物言いをすれば、社会貢献と言えるかもしれない。しかし、私は、義務を果たさなければいけないからだとか、社会貢献をしたいからだという理由で働く事にはどうしても納得が出来なかった。そして、そうこうしている内に私の発言の番になり、結局当たり障りのない事を述べて、面接は終わってしまったが、私の心の中にはしこりが残り、今後の就職活動のためにも、自分にとって労働とは何かという事を真剣に考えなければならないと痛感した。
社会貢献をしたい、という人は、おそらく仕事にやり甲斐を感じたい訳だ。就職活動中のOB訪問や会社説明会、社員懇談会でお会いした会社員(=労働者)の方達も、口裏を合わせた様に、仕事のやり甲斐とやらを雄弁に語る。そして、少なくない数の人が、やり甲斐の源泉は社会貢献性にあると言う。なるほど、確かにプラント建設のプロジェクトをプロデュースしたり、発展途上国のインフラ整備をしてその完成をみた時の喜びは格別のものであろう。このプラントやインフラのおかげで何百、いや何千万もの人々の生活が変わるかもしれない。このやり甲斐というものは良く分かる。しかし、皆が皆、ダイナミックなビジネスを展開する大手商社・ディベロッパー等や、広告・メディアといった成果が可視化されやすい業務の主導的従事者である訳では無い。なにしろ、日本の会社の99.7%は中小企業であり、極論を言えば、自動車の小さいネジだけ作ってる会社や、ハンガーだけ作ってる会社なんかもわんさかある訳だ。では、彼らも、仕事にやり甲斐を感じているのか、と考えると、私にはどうも理解が出来ない。街中で、信号待ちをしている自動車を見て、「この自動車の基盤のネジは俺が作っている!最高だ!」等と全ての人間が感じているはずがない、とひねくれた私には思えて仕方がないのだ。もちろん、日々の業務中で、上司に褒められるだとか、取引先に贔屓にされるだとか、小さなやり甲斐というものは、どんな仕事に就いても感じられるだろう。しかし、その何十・何百倍もの困苦があるはずであり、小さなやり甲斐だけではとてもじゃないが仕事を続けられない、と怠け者の私は思ってしまう。
ここで、私は自らのアルバイトの経験から考えてみる事にした。すると、とある教え子とその母親が大学合格後にその報告に来てくれた時の事を思い出した。彼らは、私のおかげで彼(息子)の人生が変わったと言い、私はそれに対して確かに喜びを感じた。当時は生徒の合格が単純に嬉しかったための喜びだと思ったが、今考えてみるとそれは違うと気付いた。それは、他者から自分の存在価値を認められた喜びであると同時に、自分がその社会に存在していいというお墨付きをもらった一種の安心感である。社会貢献だとかやり甲斐だとか義務だとか、全ての根底にあるのは、この承認欲求ではないか。無秩序に散らばった点が線となったように感じた。 今なら、あの面接官に堂々と言える。労働は、自分のためにするものだ。