【 佳 作 】
スポーツを通じて「皆が自分らしくいられる社会」を実現させたい、その実現に携われるような仕事に就きたいと私は思っている。私がそう思うに至るまでには、自分自身の中にある大きな悩みがあったからだ。私は「私」であり「僕」であるのだ。自分は性同一性障害(以下GID)といって心と身体の性別が一致していない。「障害」というと重く聞こえるかもしれないが、要するに身体は女であるが心は男ということだ。ここからは便宜上「私」を使うこととするが、そもそも性別どうこう以前に、私はスポーツが大好きな人間である。小中高の間は陸上とサッカーに明け暮れ、髪型はショートカット、性格も男勝りで、友達は私を大そうボーイッシュな女の子と思っていたことだろう。私自身、自分の性別に対して違和感はあったものの、自分が単に「ボーイッシュ」なのか、それとも本当に「ボーイ」でありたいのかは曖昧にしたまま、ただただスポーツに没頭していた。今思えばスポーツをすることで性別と向き合うことから逃げていたのかもしれないが、実際スポーツをしている瞬間はそんな悩みも忘れ、純粋にスポーツを楽しんでいた。それは何一つ飾ることのないありのままの自分であり、本当に居心地の良い時間だったからだ。しかし、大学1年の終わりに学部の勉強に専念することを理由にサッカー部を退部した。その時、人生で初めて自分の生活の中からスポーツというものが無くなった。必然的に自分と向き合う時間が増え、逃げていた「性別」とも向き合わざるを得なかった。「自分が女の子らしくないのは部活をやっていたからかもしれない。部活を辞めたのだから自分も周りのように女の子らしくなるのかな…」そんなことを考えていたが、部活を辞めても自分の性別への嫌悪感は増す一方。自分の性別を受け入れるどころか、違和感は増すばかりで自分がGIDであることを確信した。同時に、スポーツは自分が一番自分らしくいられる場所であり、悩みから解放される時間であったことを改めて強く思い知らされた。
現在の私は、両親や親しい友人などにカミングアウト(自分のセクシャリティを伝えること)をし始めている。幸いにも、私は周りの人たちに恵まれ、拒絶するような人はいないが、世間のGIDに対する理解はまだまだ進んでいない。周りにカミングアウトできずに自分だけで苦しんでいたり、カミングアウトしても周りが受け入れてくれない場合もある。差別や偏見が残っているのも事実だ。私はそうした現状をスポーツで少しでもよい方向に変えていきたい。何らかの生きづらさを感じている人が少しでもその悩みを忘れ、自分らしくいられる時間を過ごせたら…。それを実現させる可能性をスポーツは秘めていると思っている。そしてそれはGIDの人たちだけでなく、何らかの生きづらさを感じている他の社会的マイノリティの人たちにも共通して言えるのではないだろうか。極端な話、皆でサッカーをしようとすれば、日本人であろうと外国人であろうと、白人であろうと黒人であろうと、ゲイであろうとホームレスであろうと、何らかの障害を持っていようと、そんなこと以前に皆が同じステージに立ち、純粋にサッカーを楽しむことができる。そのフラットな関係性は、偏見や差別などを生むどころか、それまで「他人」であった人たちを「チーム」や「仲間」へと導いていく。「スポーツ」とは自分とは異なる他者を受け入れ易くするある種の「装置」ではないだろうか。考えてみれば、人はセクシャリティや障害も含めて、皆違って当然なはずではなかろうか。そんな当たり前のことを認め合う社会であってほしいと私は切に願っている。
私は来春から大学院に進学しスポーツ社会学を学ぶ予定だ。GIDを含めた社会的マイノリティについてよ り深く理解し、そこにスポーツがどうアプローチできるか、どうすればスポーツの強みを最大限引き出せる か、そんなことを勉強したいと思っている。