【 入 選 】

【テーマ:私の仕事・働き方を決めたきっかけ】
珈琲一杯分の心
東京都 西里町五 27歳

平成21年2月9日、夜11時。

父と二人で暮らしていた東京の家の電話が鳴って、祖母が脳梗塞で倒れたことを知らせる、祖父の乾いた声が受話器から漏れてきました。取るものも取りあえず父は祖父母の暮らす名古屋へ向けて車を発進させ、僕はいつでも連絡を受けて動けるように居間のソファーで横になりました。小さい頃から学校にあまり行かなくても、高校をやめてしまっても「あなたは心の優しい人だから」といつだって僕の味方をしてくれた祖母が、生きているのか死んでいるのかわからない。背中に伝わるソファーの合成ビニールがやけに冷たく感じて、一睡もすることなく迎えた夜明けの心細さを今でもよく覚えています。翌朝になって、祖母が一命を取り留めたこと、けれど後遺症が残り入院とリハビリが必要なことを聞きました。祖父は昔気質の人で、家事がまったくできません。僕はその頃コンビニでアルバイトをしていて、時間には融通が利きました。

「僕が行くよ、名古屋」最低限の着替えと数冊の文庫本を持って新幹線に飛び乗りました。名古屋の家に着き、祖父と合流して向かった病院で眠っていた祖母を見て正直、驚きました。ぱんぱんにむくれてゆがんだ顔で、思い通りに動かない表情筋で必死に笑顔をつくって、僕ではない人の名前を呼びます。僕が誰かはわかっていて、なんとか僕の手を握って「あなたは心の優しい人だ」と言ってくれました。今まで祖母に威張り散らしていた祖父は見たことのないような優しい顔で「忘れちゃったことは忘れていいことだで」と祖母に語りかけ、僕は泣きながら、祖母が生きていてくれるのなら僕の名前なんかどうだっていい、と思いました。

けれど生活は物語みたいには進みません。祖父の食事をつくって、洗濯をして、祖父の通院に付き合い、夕方には祖母の病院を見舞いました。病院の職員の方から祖母が、たとえば歯磨き粉をクリームと間違えて顔に塗りたくっちゃったとか、そんな話を聞き、祖母の失禁して汚れたパンツを洗うために持ち帰る毎日です。何もできないくせにすぐへそを曲げてしまう祖父と、普段やらない家事で自分の時間もままならない僕。文庫本なんか読めなくて、顔では笑うようにしていても、苛立ちは募ります。

それを救ってくれたのが、ヘルパーさんが来てくれる平日の二時間、あるいは週末に会社が休みの父が名古屋まで来たとき一緒に行く近くの喫茶店でした。名古屋は喫茶店がとても多く、充実したサービスで有名な街です。

喫茶店で静かに珈琲を飲むこと。家では少ししづらいような暗い話を、広い空間ですること。それはとても優しい時間でした。僕と父は、名古屋で頼る人のない祖父母がどうしたらいいか話し合います。どうしていいかわからなかった状況が少しずつ、まとまりはじめました。「普段話さないようなことや話しにくいことを話すのに、喫茶店っていうのは必要だよね」と父は言い、僕は頷きました。

そんな生活が三ヶ月ほど続き、最初は「名古屋で死にたい」と言っていた祖父は「町五くんがいるなら」と言って東京に来てくれました。もちろん祖母も一緒に。去年九十歳を超えた祖父は東京での生活で持病の喘息が治り、年々元気になっていきます。祖母は相変わらず僕の名前を間違え、相変わらず「心の優しい人だ」と言ってくれます。本当に優しいのはあなただ、と僕は思っています。

僕は喫茶店をつくりました。銀行からお金を借りて、祖父母にその頃の話をしたら自分たちのお金を貸してくれました。最初は何もわからなくて右往左往する日々でしたが、今は毎日300人のお客様がきてくださいます。

逃げ場のない日常のある人や、話しづらいことを抱えている人というのは確実にいて、全部の問題は解決できなくても、珈琲一杯分だけ心が軽くなるなら。あの日々で僕が飲んだ珈琲みたいに、少しでも誰かの力になってくれたらいいな、と願っています。

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